荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『オデット』 ジョアン・ペドロ・ロドリゲス

2012-10-19 01:36:17 | 映画
 「 “映画的” という形容を安易に使うのはやめよ」といった倫理的な恫喝をばらまく書き手を警戒すべきだ。そうしたストイシズムをみずからへの戒めとして留めるならまだしも、他人を抑圧的に巻き込まないと気が済まない連中の精神は、私やあなたのエネルギーを奪うだけである。“映画的” という、思考の重さを免れたうかつな肯定表現を恐れるべきではない。どんどん使うべきなのである。どうすれば映画は映画的たり得るのか。それを散歩感覚で毎日考える。
 たとえば、真面目なことを真面目に撮るのがいいのか、馬鹿馬鹿しいことを馬鹿馬鹿しく撮る方が映画的なのか。私のつたない結論のひとつとしては、真面目なことを馬鹿馬鹿しく撮ることよりも、馬鹿馬鹿しいことを真面目に撮る方が映画的だということだ。少なくともそこには、作者の倒錯が映り込んでいることだろう。
 だが、厄介なのが、現実を倒錯的に見たり撮ったりするのではなく、倒錯そのものとしか言いようのない事象を撮らねばならない場合である。ペドロ・アルモドバルなどはそれで30年間も苦悩しているわけだ。ミヒャエル・ハネケは倒錯そのものを撮っているだけで満足しているように見える。

 来年早々に日本初登場予定のポルトガル人映画作家ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは、どうやら倒錯そのものを倒錯的に撮りたい、馬鹿馬鹿しいことを真面目に撮ると同時に真面目なことを馬鹿馬鹿しくも撮りたい、そういう随分と欲張りな映画作家であるようだ。あの『トラス・オス・モンテス』のアントニオ・レイスのもとで学んだというから油断がならない。ちなみに彼の4作目『男として死す(Morrer comò um homem)』(2009)は、仏カイエ・デュ・シネマ誌2010年ベストテンの7位にランクされている。
 長編2作目『オデット(Odete)』(2005)。キスするカップルの頬だけをとらえたクロースアップから徐々にズームで引いていくと、このカップルがゲイであることがわかる。「おやすみ」のキスを終えた2人にはその数秒後、意表を突く悲劇が待っている。悲劇に上塗りするかのように突如として雨。フェイドアウト。明けると次はスーパーマーケット内のローラー・ガールの滑りに合わせてトラベリング。この過剰なる演出の畳みかけこそ、この作家の倒錯宣言である。あとは何が起こっても、観客はそれを受けとめなければならない。
 あくまで私の個人的な見解だが、墓参りを大事にする映画作家はたいがい、すばらしい映画作家だ。フォード、ヒッチコック、W・ディターレ、溝口健二、木下惠介、そして現代ならスピルバーグ…。『大鹿村騒動記』にしても墓参りがすべてを救っていたではないか。ジョアン・ペドロ・ロドリゲスはこれに敢然と立候補し、墓参りそのものを主題にしようとさえする。みずから墓石とならんと志願するこの気迫、勇気を讃えたい。この作家の映画祭が日本国内で実現する2013年という年が、いまから楽しみだ。


ジョアン・ペドロ・ロドリゲス映画祭実行委員会《DotDash!》
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