トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルもののような偉大な例外もなくはないが、作者の実体験を映画にするというのは、本人の思い入れが空転して退屈な代物に堕する危険がある。在日朝鮮人の女性ドキュメンタリー作家ヤン・ヨンヒ(梁英姫)の初の劇映画は、自身が味わった悲しみの体験をプロの俳優の演技に置換した、いわば絵解きである。1970年代初頭に〈帰国事業〉で “地上の楽園” と謳われた北朝鮮へ渡った16歳の少年ソンホが、脳腫瘍の治療のため25年ぶりに日本滞在を許され、故郷である東京・足立区の実家に身を寄せる。彼(ARATA改め井浦新)を出迎える妹リエ(安藤サクラ)が、作者の分身である。
「映画芸術」誌の最新号を読むと、物語(=実体験)に対するヤン・ヨンヒ監督の過度の思い入れと、演出ノウハウのなさゆえに、スタッフ・キャストがどれほど多大な作業負担とストレス、時間の空費を強いられたか、関係者たちの対談記事で赤裸々に紹介されている。本番中、クシャクシャに号泣する監督の姿を目撃したら、どんなスタッフ・キャストだって「この作品、大丈夫か?」と不審に思うだろう。だが、そうした暑苦しい現場じたいが、ある意味でヤン・ヨンヒなりの演出法なのかもしれない。
そして、本作が冒頭に言ったような退屈さをまぬがれた要因は、ソンホの日本滞在中の行動を見張る北朝鮮政府の監視人・ヤン同志を演じたヤン・イクチュン(『息もできない』監督・主演)の存在にある。ヤン・イクチュンはソンホの家族の動向を見張る治外法権の異物であると同時に、この『かぞくのくに』という作品そのものを見張る治外法権であり続ける。
ラスト近くで、だれも予想していなかった即興的なことを仕掛けたヤン・イクチュンが、隣の井浦新に「僕は監督の考えを壊すためにここにいるから」とこっそり言ったそうである。粗暴なる介入が柔軟に受け入れられれば、実体験の絵解きに、登場人物の心理に従属せぬ映画ならではの亀裂を入れることができるかもしれない、ということをこの作品は物語ってもいるのである。
ソンホの初恋相手である人妻(京野ことみ)が、「いっしょにどこかへ逃げちゃおうか?」と思いつめたような冗談を言って、ソンホが「君だけはずっと笑顔でいてほしい」と言い返す。そのあとカメラは、2人が夕景の荒川のさざなみを見つめるやや俯瞰ぎみの引きのバックショットとなる。ちょっとだけ間があって、京野ことみがパッと踵を返して帰ってしまうタイミングには、絶妙な厳しさがあった。
テアトル新宿ほか全国で順次公開
http://kazokunokuni.com
「映画芸術」誌の最新号を読むと、物語(=実体験)に対するヤン・ヨンヒ監督の過度の思い入れと、演出ノウハウのなさゆえに、スタッフ・キャストがどれほど多大な作業負担とストレス、時間の空費を強いられたか、関係者たちの対談記事で赤裸々に紹介されている。本番中、クシャクシャに号泣する監督の姿を目撃したら、どんなスタッフ・キャストだって「この作品、大丈夫か?」と不審に思うだろう。だが、そうした暑苦しい現場じたいが、ある意味でヤン・ヨンヒなりの演出法なのかもしれない。
そして、本作が冒頭に言ったような退屈さをまぬがれた要因は、ソンホの日本滞在中の行動を見張る北朝鮮政府の監視人・ヤン同志を演じたヤン・イクチュン(『息もできない』監督・主演)の存在にある。ヤン・イクチュンはソンホの家族の動向を見張る治外法権の異物であると同時に、この『かぞくのくに』という作品そのものを見張る治外法権であり続ける。
ラスト近くで、だれも予想していなかった即興的なことを仕掛けたヤン・イクチュンが、隣の井浦新に「僕は監督の考えを壊すためにここにいるから」とこっそり言ったそうである。粗暴なる介入が柔軟に受け入れられれば、実体験の絵解きに、登場人物の心理に従属せぬ映画ならではの亀裂を入れることができるかもしれない、ということをこの作品は物語ってもいるのである。
ソンホの初恋相手である人妻(京野ことみ)が、「いっしょにどこかへ逃げちゃおうか?」と思いつめたような冗談を言って、ソンホが「君だけはずっと笑顔でいてほしい」と言い返す。そのあとカメラは、2人が夕景の荒川のさざなみを見つめるやや俯瞰ぎみの引きのバックショットとなる。ちょっとだけ間があって、京野ことみがパッと踵を返して帰ってしまうタイミングには、絶妙な厳しさがあった。
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