荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『かぞくのくに』 ヤン・ヨンヒ

2012-08-15 02:27:44 | 映画
 トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルもののような偉大な例外もなくはないが、作者の実体験を映画にするというのは、本人の思い入れが空転して退屈な代物に堕する危険がある。在日朝鮮人の女性ドキュメンタリー作家ヤン・ヨンヒ(梁英姫)の初の劇映画は、自身が味わった悲しみの体験をプロの俳優の演技に置換した、いわば絵解きである。1970年代初頭に〈帰国事業〉で “地上の楽園” と謳われた北朝鮮へ渡った16歳の少年ソンホが、脳腫瘍の治療のため25年ぶりに日本滞在を許され、故郷である東京・足立区の実家に身を寄せる。彼(ARATA改め井浦新)を出迎える妹リエ(安藤サクラ)が、作者の分身である。
 「映画芸術」誌の最新号を読むと、物語(=実体験)に対するヤン・ヨンヒ監督の過度の思い入れと、演出ノウハウのなさゆえに、スタッフ・キャストがどれほど多大な作業負担とストレス、時間の空費を強いられたか、関係者たちの対談記事で赤裸々に紹介されている。本番中、クシャクシャに号泣する監督の姿を目撃したら、どんなスタッフ・キャストだって「この作品、大丈夫か?」と不審に思うだろう。だが、そうした暑苦しい現場じたいが、ある意味でヤン・ヨンヒなりの演出法なのかもしれない。
 そして、本作が冒頭に言ったような退屈さをまぬがれた要因は、ソンホの日本滞在中の行動を見張る北朝鮮政府の監視人・ヤン同志を演じたヤン・イクチュン(『息もできない』監督・主演)の存在にある。ヤン・イクチュンはソンホの家族の動向を見張る治外法権の異物であると同時に、この『かぞくのくに』という作品そのものを見張る治外法権であり続ける。
 ラスト近くで、だれも予想していなかった即興的なことを仕掛けたヤン・イクチュンが、隣の井浦新に「僕は監督の考えを壊すためにここにいるから」とこっそり言ったそうである。粗暴なる介入が柔軟に受け入れられれば、実体験の絵解きに、登場人物の心理に従属せぬ映画ならではの亀裂を入れることができるかもしれない、ということをこの作品は物語ってもいるのである。
 ソンホの初恋相手である人妻(京野ことみ)が、「いっしょにどこかへ逃げちゃおうか?」と思いつめたような冗談を言って、ソンホが「君だけはずっと笑顔でいてほしい」と言い返す。そのあとカメラは、2人が夕景の荒川のさざなみを見つめるやや俯瞰ぎみの引きのバックショットとなる。ちょっとだけ間があって、京野ことみがパッと踵を返して帰ってしまうタイミングには、絶妙な厳しさがあった。


テアトル新宿ほか全国で順次公開
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《東洋の白いやきもの》展 @出光美術館

2012-08-13 00:11:47 | アート
 日本人と白磁の出会いは、歴史的に二度ある。

 一度目は豊臣秀吉の朝鮮出兵。これは「やきもの戦争」というニックネームさえあるほどで、朝鮮半島の陶工たちが大勢、秀吉軍で出兵した各大名によって日本各地に連れてこられ(連れてきた日本側から見れば「招へい」かもしれないが、夫を連れて行かれた妻や、師を失った弟子たち側から見れば、これも立派な「拉致」である)ている。有田焼(伊万里)、唐津焼、薩摩焼、萩焼など、日本の代表的な窯の多くが、こうした朝鮮人陶工の指導によって開かれた。1616年、来日して24年目となったイ・サンビョン(李参平)は、とうとう有田の泉山で良質な磁石を発見し、日本初の白磁を焼くことに成功した。イは、肥前・陶山神社に神として祀られている。
 二度目の歴史的出会いは、白樺派の柳宗悦が韓国併合期の1914年、ソウル在住の浅川兄弟から李朝白磁の美を教えられたこと。これは先に公開された高橋伴明の新作『道 白磁の人』でも描かれた。「物言わぬ静けさ」「民衆の悲しみとしての白」といった調子で書かれた柳宗悦の朝鮮白磁礼讃は、現代の視点では「植民地主義的」として退けられる向きもあるが、単なる雑器に過ぎないものの中に真の美を見出すその卓越した眼力は、やはり軽視されるべきではない。

 白磁は、現代社会において洋の東西を問わず、圧倒的にシェアが高い。ようするに人類は、宋・元・明・清で開発された白磁の魅力に抗することができなかったのである。今でも英語では「チャイナ」と呼ぶ。マイセンもリチャード・ジノリも、ロイヤル・コペンハーゲンも、セーヴルもリモージュも、すべて「チャイナ」である。私たちが日々ごはんを食べる飯茶碗も多くは、愛知の瀬戸で焼かれていても、やはり分類としては「チャイナ」である(私は飯茶碗として、美濃の飴釉陶器を愛用しているが)。
 ひるがえって、日本人は古くはたいへん独創的な嗜好を見せ、黒陶をもって最高位とした。室町時代に珍重された建窯(福建省)の「黒天目」は今なお、最高クラスの国宝として崇高かつ深遠なる黒光りを私たちの目玉に突き刺してくるが、明帝国においては、黒陶の建窯が、白磁の産地である景徳鎮や定窯、磁州窯にくらべれば、無名の傍流に過ぎないことも知られている。傍流が、別の文明では最高位として喜ばしき誤解の主人公となる。これが芸術というものの醍醐味ではないか?
 勅使河原宏が撮った、険しく研ぎ澄まされた後期の映画『利休』(1989)では、今福将雄の演じる楽家初代・長次郎がろくろを使わず手づくねで成形しながら高温で焼いた土の物体が、ジュワーッと柑橘系の色に発光する。妖しく発光する不格好な物体が、やがて温度が下がると同時にドス黒くイカツイ器形へと変化していく。建窯の輸出品「黒天目」がついに土着化した瞬間である。つまり「楽焼」というものが誕生するプロセスをとらえたワンカットは、日本映画史上で最もセクシーなカットのひとつであった。ああいうカットがぱっと撮れてしまう。つまり、それほどまでにこの島国で黒陶の美が、風土として定着していたということだ。
 ヨーロッパでは石で家を建て、中国も石でうつわを焼いた(磁器)が、日本では千年一日のごとく木と土で家を建て、木と土でうつわも作った(木で漆器を 土で陶器を)。ただ、リドリー・スコットの最新作『プロメテウス』(『エイリアン』の前日譚)を先行ロードショーで見てみたら、エイリアンは当初、エイの腹部のように白い生物だったのだが、のちに、ある外部的介入をきっかけにドス黒い生物へと生成変化するのだ。つまり、H・R・ギーガーは長次郎だということか。

 帝国劇場の9階にある出光美術館で、《東洋の白いやきもの》展がおこなわれている。この白さは、時に緊張を強い、清潔で、潔癖で、時に素朴で、冷たくも温かくもある。日本人が伝統的にnoirに与えてきた最高位の高貴さを、blancは肯定しつつ否定する。展示会場で白い陶磁を眺め続けていると、現在は黒いと思われている宇宙はやがて、白い宇宙へと変わっていくのではないかとさえ思えてくる。
 今回の展示の中に日本の美濃で焼かれた「白天目(重文)」(左上写真)が出展されている。天目茶碗といえば黒と決まっていると思っていて、この世に「白天目」なんてものが存在しているなんて初めて知った。いやぁ、知らないことはまだまだ一杯一杯ある。

矢野誠一 著『東都芝居風土記』

2012-08-10 02:53:41 | 
 拙ブログで以前、長島明夫・結城秀勇編『映画空間400選』の書評的なことを書いたとき、その文中〈小百科〉という形式への愛を表明させてもらったことがある。
 事の発端はわが小学生時分、父が職場で何かの表彰を受けた際の副賞としてもらって帰ってきた、高塚竹堂の『書き方事典』(野ばら社)を奪って、隅から隅まで何度も舐めるように日々眺めたことに始まる。子どもというのは、変なところで執念深さを発揮する動物らしい。そして大学時代にギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』を読んでから、また〈小百科〉熱に小さな火が点き、以来、根がコレクター的感性に乏しいため数多く取り揃えているわけではないけれど、気の利いた〈小百科〉を見つけるとつい買い求めて、ひとり楽しんでしまう。
 〈小百科〉愛好とやらを客観的に眺めるならば、大部の書を紐解く労を惜しんでただ益を求めるさもしい精神のなせる業にちがいなく、おのれの矮小性を喧伝するばかりで、はなはだ気恥ずかしい。しかしながらこの分野は、地味ながら世紀の名著の宝庫であることもまた事実なのである。

 丸の内オアゾの丸善で松岡正剛の主宰する店舗内店舗「松丸本舗」が9月一杯で閉店すると聞いて行ってきた際にまたぞろ買い求めたのは、演劇評論家・矢野誠一の『東都芝居風土記』(2002 向陽書房)。東都とは京の都に対して江戸を指すのはもちろんで、江戸=東京の地誌を演劇ゆかりの事情に絡めつつ整理した、いわば〈小百科〉に属する一冊である。著者の私淑する戸板康二の『芝居名所一幕見 東京篇』(1958 白水社)に倣ったもので、作品の舞台となった土地、名優の在所だった土地、かつて芝居小屋のあった土地をいろいろと特定しながら、好きなことを好きなように書いている。
 土地柄、どうしても歌舞伎への言及が大半を占めるものの、ポール・クローデルの三宅坂、三島由紀夫の内幸町(鹿鳴館)、『放浪記』の落合、長谷川伸の荒川堤、新劇の揺籃地・築地、松井須磨子の眠る牛込・多聞院、早稲田大学の演劇博物館、ストリップと女剣劇の浅草六区、さくら隊の顕彰される目黒・五百羅漢、新派の一石橋と佃島と湯島天神と雑司ヶ谷など、歌舞伎以外への言及も盛りだくさんで、じつに賑やかな本である。
 読み始め当初は、形式の好みにもかかわらず、文そのものが生硬で面白味に欠けるなぁと思ったが、読み進めるにしたがってそんな不満もいつのまにか雲散霧消していた。

『なみのおと』 濱口竜介、酒井耕

2012-08-08 21:15:09 | 映画
 次のような意味のナレーションが静かに聞こえてくる。「人的被害の甚大な地域が必ずしも、その後の備えをじゅうぶんに行うとは限らないという。むしろ、誰かが生き残って、津波の怖さや備えの意識を次代へと語り継いでいくことが必要だということである」。
 濱口竜介、酒井耕共同監督のドキュメンタリー『なみのおと』(2011)は、せんだいメディアテーク内にできた「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のもと「東北復興へむけた記録を後世に残す」というコンセプトによって東京藝術大学が製作したものである。本作はほぼ津波の体験談のみで構成されている。原発事故に対する生半可な取材は極力廃されており、ただ単に臭いものに蓋をするように沈黙を決めこんだわけではないことは一目瞭然である。
 8組の津波被災者がカメラの前で言葉を紡ぐ。彼らはみな素人でありながら、苛酷な体験を経てしまったために、必然的に饒舌となっている。この饒舌にじっと耳を傾けるという意図は、タブーじみた手法へと作者2人を駆り立てる。カンバゼーションが熱を帯びると、カメラはいつのまにか会話している2名の被災者の中間地点に構図=逆構図で背中合わせに2台陣取り、話者の切り返しを現出させるのである。互いが互いに話しているショットがせわしなく切り替えされる。ドキュメンタリーでありながら、会話劇としての特異な形式がおそろしく律儀に墨守され、いわばSkype的なショットが積み重ねられる。
 そのとき8組の被災者たちは、被害の実態と悲しみを証言する匿名的な取材対象であることを辞めて、それぞれが今まさに燃焼しつつある生の存在証明を素晴らしい力強さと共におこなっている。より良い生を模索する人々の言葉は、実験的なカメラワークによっても過度の美学性を帯びることがない。登場人物(と、もはや名づけた方がいいかもしれない)の葛藤、人間関係、思考、時間感覚から、登場人物と死者をかつて取り結んでいた共通の趣味まで、その土地に生きた人間の生の地層が赤裸々に飛び出してくるのである。濱口竜介は以前、京橋フィルムセンターにおける船曳真珠とのトークショーにおいて、「日本映画は依然として会話劇としては未開拓だ」と述べている。会話劇に地平を拓いてきた濱口、そして酒井耕の両監督にとって、稀有な挑戦となったことは間違いない。


オーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)にて〈濱口竜介レトロスペクティヴ〉開催中
http://www.hamaguchix3.com

『ヘルタースケルター』 蜷川実花

2012-08-05 01:44:51 | 映画
 蜷川実花の活動はこれまで写真にしろ映画にしろスルーしてきたが、いまこの2012年という時間に『ヘルタースケルター』が作られたことはとても意義深いような気がする。その極彩色の映像は、さして期待していたわけではないこちら側をしたたかに出し抜く、度肝を抜くという地点には達してはいないかもしれない。また、ヒロインのりりこ(沢尻エリカ)の錯乱の進行に呼応して、画面はパニックのようにイメージの奔流となるが、同一テイクかそれに類するフッテージが何度も再使用されているのは、いささか興ざめでもある。
 しかし、これは一にも二にも沢尻エリカを見るための作品なのである。ここ数年の舌禍、結婚、離婚、薬物疑惑など数知れぬスキャンダルでひたすら昼ワイドショーの素材に堕ちていた彼女がどこかすがりつくように、自分と二重写しのような主人公を演じる。観客のほとんどはあえて〈りりこ≒沢尻エリカ〉を措定して画面と対峙しようとするだろう。その方がおもしろいからだ。そして、そういう容赦のない視線を受けとめつつ、崩れ落ちそうな予感も漂わせた肢体は、〈いま、ここ〉にしか存在しえないスリリングなドキュメンタリー的体験を対峙者に与えることに、かろうじて成功している。
 岡崎京子の原作を私は読んでいないが、映画への優れた理解者である岡崎のことだから、おそらくエミール・ゾラの小説『ナナ』を映画化(1926)したジャン・ルノワールとカトリーヌ・エスランへの讃辞が込められているだろう。ゾラが産みだしたヒロインの女優は、紳士たちを手玉にとって破滅させたあと、天然痘にかかり最後は醜い姿と化し、パリの片隅で人知れず死んだ。全身整形の副作用という随分とヘンテコなテーマ設定から始まる本作のヒロインはこの東京という街で、最後にはどうなるのか? それはここで言うべきではあるまい。ただひとつ、りりこの不安はわれわれ東京都民すべての不安と相通じている。経済縮小による国際的地位低下、天災による第二のカタストロフへの漠然とした不安。いずれにしろ、すべてが近々終わりそうだという自暴自棄で空疎な宴の中にいる点では、りりこも私もたいして変わりはしないのだ。
 最後になったが、上野耕路のサウンドトラックが非常に素晴らしかったことを追記しておかねばならない。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
http://hs-movie.com/