荻野洋一 映画等覚書ブログ

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前代未聞の「4連続クラシコ」

2011-04-15 02:26:44 | サッカー

 欧州のサッカーシーズンも、いよいよクライマックスというところ。スペインの2大ビッグクラブ、レアル・マドリーとバルセロナの試合のことを俗に「クラシコ」と呼んでいるが、今年はなんたる天の配剤か、運命の悪戯か、通常リーグ戦におけるいわゆる狭義の「El Clásico(クラシコ)」の他に、スペイン国王杯コパ・デル・レイの決勝も同カードとなったし、チャンピオンズリーグの準決勝も同カードとなってしまったのは、すでに既報の通りです。つまり、前代未聞の「4連続クラシコ」というわけです。これを悪い冗談と取るか、僥倖と取るかは人それぞれの趣味だと思います。しかしながらわたくしとしては、モウリーニョとグアルディオラの両知将が、どのように戦い方を分けてくるのか、興味が尽きません。以下、日本での放送予定をまとめてみました。

▼リーガ・エスパニョーラ第32節  現地4/16 レアル・マドリーvsバルセロナ 会場/サンティアゴ・ベルナベウ(WOWOW 4/17午前4:45よりハイビジョン生中継)

▼スペイン国王杯コパ・デル・レイ決勝  現地4/20 バルセロナvsレアル・マドリー 会場/メスタージャ(WOWOW 4/21午前4:15よりハイビジョン生中継)

▼UEFAチャンピオンズリーグ準決勝1st leg  現地4/27 レアル・マドリーvsバルセロナ 会場/サンティアゴ・ベルナベウ(スカチャン 放送日時未発表)   

▼UEFAチャンピオンズリーグ準決勝2nd leg  現地5/3 バルセロナvsレアル・マドリー 会場/カム・ノウ(スカチャン 放送日時未発表)


『トスカーナの贋作』 アッバス・キアロスタミ

2011-04-12 20:57:06 | 映画
 本作はイタリア、トスカーナ地方の都市アレッツォとその周辺で撮られている。とても中世的な景観をもつことで知られるこの街から、あるカップルが車を少し走らせて、郊外の村を訪れる。アッバス・キアロスタミの手にかかると、トスカーナの古村が、彼の諸作にあらわれたイランのさまざまな地方都市と同類の、魅惑的でいながら少しばかりとげとげしいあの独特の空気に包まれてしまうのだから、まことに不思議である。道はか細く複雑に曲がりくねり、見る者は時間の感覚も喪失していく。昼が異様に長く感じられ、かと思うと最終的には、夜のとばりがあまりにも早く下りたようにも感じられる。

 アレッツォ市内で骨董ギャラリーを経営するフランス人女性(ジュリエット・ビノシュ)と、美術作品の贋作についての著作を発表したばかりのイギリス人男性(ウィリアム・シメル)。このふたりが、ひょんなことから「関係の冷えた夫婦」を演じるゲームを始める。ようするにシネフィル的に言うと「ロッセリーニごっこ」といったところ。そして、虚実の境界がみるみるうちに不分明となっていくのは、キアロスタミ映画そのものである。
 私が本作でもっとも気に入っているシーンは、村の狭い美術館で、この男女が小さな女性肖像画を鑑賞する場面。ここでのジュリエット・ビノシュは最高だと思う。その絵は、彼女が以前から真実の美を見出してきた作品だったのだが、これに対して男は、歴史的な価値から割り出した冷淡な評価を下すことしかできず、女を決定的に失望させる。

 贋作をめぐるリプリーのゲームを描いた(描いた、と言えるのかはさておき)ヴェンダースの『アメリカの友人』ではないが、贋作というものは、つねに一筋縄ではいかない。むかし、江戸化政期の亀田鵬斎や谷文晁は、人気者ゆえ贋作が数多く市中に出回ったのに、いっこうに気に病むことがなかった。それどころか、出来がいいと認める贋作には、率先して自分の名を署名してやっていたらしい。そんなやり口で裏収入を確保したのであろうし、才能ある若手が糊口を凌ぐのを手伝う、という名分もあったかもしれない。そんなことを思いめぐらせながら本作を眺めていたら、あっという間にゲームの終了を告げる鐘が鳴ってしまった。こんなとげとげしい内容の世知辛い会話劇でも、微笑みと共に眺めていられるのは、キアロスタミの徳性のためか。


シネマート新宿ほか、全国各都市でM.O.
http://www.toscana-gansaku.com/

今年の花は哀しい

2011-04-10 09:34:41 | 身辺雑記

 金曜の夜、仕事中の移動のため、目黒川沿いの歩道を下流に向かって歩いていると、満開となった桜花が、はるか向こうにまで物言わず連なっている。花見客はいない。

 私は、元末明初の詩人、高啓の「水を渡り また水を渡り 花をみ また花を看る 春風江上の路 覚えず君が家に到る」という詩を、判で押したかのごとく唱えるのみであるが、ここで高啓の言う「君が家」とは、日本の詩歌でのように通婚や妾宅などといった「愛の巣」として捉えてはなるまい。彼らにとって、こういう場合の「君が家」というのは、学芸・思想の面で相通じ合った友との、夜を徹しての語らいを指す。人生において、これに勝る悦びはないという詩である。「覚えず君が家に到る(不覚到君家)」、つまり「いつの間にか、君の家に辿り着いてしまったよ」の「不覚」の二文字がよりいっそう、交わりの親密さを掻きたてる。運河が縦横無尽に巡らされた蘇州の街を、夜更けに花を見ながら、橋を渡りながら、ぶらぶらと歩く高啓の手にはおそらく、友と分かち合うために用意した上等な美酒が、縄ひもで釣り下げられていたことだろう。

 誰もが感じておられることであろうが、今年の桜花は、いつになく物悲しい。自粛の趨勢にあって、盛大に鑑賞されることもなく、酒肴となることもなく、ただその咲きっぷりだけは放射能まみれの空気中でも、例年どおりに普通にちゃんと咲いている。私自身は依然として貧乏暇なし、花見としゃれ込む余暇と余裕がない。だから一瞥くらいは、怖いほど静謐な美しさをたたえた今年の夜桜にくれてやってもよいではないか、と思ったのである。


『ランウェイ☆ビート』 大谷健太郎

2011-04-09 07:57:52 | 映画

 『NANA』(2005)と『ソラニン』(2010)は共に、宮崎あおい出演作の中では、申し訳ないけれど惨憺たる出来としか思えなかったが、現在松竹系で公開中の『ランウェイ☆ビート』では、なんと前者の監督である大谷健太郎、後者の脚本家である高橋泉が組んでいる。「毒をもって毒を制す」「盗人の番人には盗人を使え」のたぐいと勘ぐるのは、辛辣に過ぎるか。

 東京・月島にある廃校寸前の高校を舞台に、ファッション・ショーの開催に情熱を燃やす生徒たちの青春映画で、みずからの凡庸さを自覚したヒロインが、才能に恵まれた親友の躍進を陰から応援するという点では、『NANA』の宮崎あおいのポジショニングが、桜庭ななみに引き継がれている。祭りの熱狂から覚めた未来の位置からヒロインの回想形式で語られるという点も、『NANA』の焼き直しである。

 大谷健太郎という人は、もともと自主製作時代から、室内の淡々とした日常描写を得意とする人であったと記憶しているのに、なぜか柄にもないモブ・シーンを撮らされる羽目に陥って、墓穴を掘っている気がする。『NANA』のモブ・シーンはあり得ないひどさだったが、今回も悪戦苦闘といったところ。円陣のアルドリッチ的な仰角ショットは、可愛らしい。

 また、月島やお隣の佃島のロケーションについては、これを生かそうとして、あまり生かしきれていない。そもそも月島に学校があったとして、生徒不足で泣く泣く廃校などという設定は、認識としては古すぎる紋切型であろう(これは原作者の責任だけではないはずだ)。都心部の過疎化が叫ばれたのは、10年以上も昔までの話である。これは以前にも指摘したことだが、月島を含む中央区は東京23区中、人口増加率の最も高い区のひとつとなっている。住宅の供給は急ピッチで、小中学校については、かえって教室が足りなくなってさえいるのが現状である。

 

3月19日(土)より、新宿ピカデリーほか全国で上映中

http://www.runbea.jp/


長島明夫、結城秀勇 編『映画空間400選』

2011-04-05 02:13:01 | 
 京橋フィルムセンターを訪れるたびに誰もが気になっている場所として、中央通り沿いのINAXギャラリーというものがある(私は入ったことはない)。伊奈製陶(INAX)は、常滑焼の建材陶器で天下を取った企業だが、ここの出版部門がこのたび映画本を出した。『映画空間400選』(INAX出版)。
 編者のひとり結城秀勇は雑誌「nobody」の編集長でもあり、この雑誌でかねてより推進されてきた映画評論と建築評論の合流の試みが、本書の製作において拡充され、その結果、映画評の執筆に多くの若手建築家たちが動員されている。建築畑に映画評論を熟知する人材がこれほど豊富に存在すること自体が、率直に言って大きな驚きであった。

 私は、〈小百科〉というジャンルの本が大好きである。根が怠惰なのか、あれこれと万巻の文献に手広く当たるよりも、コンパクトな〈小百科〉を、暗記するほどなめる方が性に合っているのである。高校時代に副教材として配布された京都書房の『新修国語総覧』や山川出版社の『世界史用語集』、それから大修館書店の『漢詩漢文小百科』は、現在の私の貧しい知識の半分以上を形成してくれたのではないかと思う。いまでも日常的に愛用しているこの手の〈小百科〉として、名著『淀川長治 映画ベスト1000』(河出書房新社)や、欧州各国レストランでのメニューの読み方をくわしく解説したベルリッツ社発行の『European Menu Reader』などがあり、これらは仕事の場でも大いに活躍してくれている。それから、以前に台北で買った『100位中國畫家及其作品』(高談文化事業有限公司)は、新石器時代から中華民国に至る中国の画家ベスト100を選出し、450ページほどにパッキングした〈小百科〉で、意外と類書がないだけに重宝この上ない。
 手前味噌となるが、私が20代に執筆なり編集なりで参加した『エイティーズ──80年代検証 いま、何がおきているのか』(1990 河出書房新社)、『映画100物語 外国映画篇/日本映画篇』(1995 読売新聞社)、『キネマの世紀』(1995 松竹映像渉外室)などにしても、現在めくってみた時にそれなりの面白さがある。そもそも、『万葉集』から始まって『和漢朗詠集』、あるいは『古今』をもって嚆矢とする勅撰和歌集など、日本の知の根幹そのものが、〈小百科〉的なるものを読みたい、または編纂したいという欲望の集積ではなかったか。

 『映画空間400選』で選出された400本の作品のうち、私はすでにほとんどを見尽くしてしまっている。今回私は本書を、頭から尻まで通読という形で読んだが、それはこの種の書にとって本来の読みではない。書棚の一番手に取りやすい区域に立てかけておいて、折にふれパラパラめくりながら、思いついたページを拾い読みし、該当作品をレンタルなり劇場なりで再見してみる、というのが正しい読み方であろう。