以前の記事で、いろいろ考察していく中で、低レベルではあるものの室内音響的にこういう部屋にすると良いのではないかというのをある程度は明示してきた。
ただ、それを備えた部屋をシミュレートするにあたって、部屋としての魅力を高めようとすると室内音響のあるべき要素とバッティングしてしまう事案が複数発生した。
その中で仮想上の理想の部屋であろうとも、ある程度は音響的な妥協をすることも必要であると考え、具体的に妥協すべき部位を考察した。
今回はどのようなポイントを妥協してもよいものなのか、妥協すべきでないのか、今までは感覚で決めていたものをしっかりした価値基準を明確にすることでブレない、応用しやすいものにしていこうという記事である。
コンシューマーオーディオの大前提として自己満足のために行うものである。なので「〜すべき」というのは基本的に存在しない。
他人に関してのスタンスはそうであることに違いないのだが、自己に対するスタンスは別である。仮想として考察している音質的に良好な部屋に関して、音響的に好ましい影響を与えるであろう仕掛けを積極的に付与すべきというのは間違い無くやるべきことである。
ただ、音がいい仕掛けだけをただ単純に付与し尽くしただけでは「ただ音が良いだけの穴倉」になってしまう。
まったく音質向上への配慮がされていない部屋が良いとは言えないが、ただ音を良くする為の仕掛けを極限にまで施した部屋が良いとも言えないので、その間のどこかに理想があると言える。それがどのあたりなのかを考察する。
今回の記事ではオーディオファイルがグレードアップしたいと思いコンポーネントを買い替えたりルームチューニングを行ったりする動機について整理し、その観点から室内音響処理の取るべき対応について考えてみようと思う。
理由はいくつか考えられる。
①再生音楽の特性の向上により、好きな音楽を聴くことで得られる心理的効果を向上させたい。
聴くのが好きな楽曲があって、それを聴いた時に得られる「気分の良さ」や「感動」をより増強させるために良い機材が欲しいと思う。
この希望は根源的には音響に拘る人の最大のモチベーションの理由であり、世の中で行われている大半の買い換えの建前上の理由はこれである。ただ実際はそれが理由とも言えないケースも存在するのも事実と言える。
「好きな音楽を聴くことで得られる心理的効果を向上させたい」というのが理由で室内音響の改善に取り組むのであれば、そもそもそのリスニングルームが居室中の人間に与える心理的効果を良くすることも当然のように大事と言えるのではないだろうか。
「この部屋は音が良くて好きな楽曲がより美しく聴こえるので良い気分になれる。でも部屋自体の雰囲気は異様で居心地の悪さを感じる。」というのではよろしくないと思うのである。
部屋の音響処理によりリスニングの心理的効果にプラスの付与効果は見られるが、居住性の悪さによるマイナスの効果も付与され、折角のプラス効果が相殺されてしまう。
①の理由でリスニングルームを設計するとしたら、居住性の悪い部屋にしてはいけないのである。研究目的の実験室とは明確に正解が異なる要素はここにあると思われる。
②今よりも良い特性になることが期待できる機材を導入することで、保有システムがどのような音になるか興味がある。もしくはより良い特性になっているという安心感が欲しい。
「①」の理由で買い替えができるならそれが理想であるが、試聴や前評判で分かることはごく一部である。
自分のシステムにその機材を組み込んだときにどこまで心理的な向上効果があるのか、聴けば判断できるものなのか、聞こえ方の変化による短期的な印象の変化だけなのか、耳が慣れてもプラスの心理的効果が継続する長期的な効果なのか、そんなものは買って導入するまでは分からないことが大半である。
そのため今の機材よりも特性の良さそうなものに買い替えるというのは一般的によく行われる。自己に対する心理的効果が不明なのであれば客観的な数字に頼ろうとするのは当然と言える。
今考えている仮想のリスニングルームも結局はそれである。特性によって心理的効果を予測しているだけに過ぎない。
もし機材の導入による変化が明確でなかったとしても(もしくはアクセサリーなど細かいところの変更のため明確な変化がそもそも望めないとしても)、前よりも理想的な特性に少し近付いたという心理的満足感や安心感を得ることはできる。精神衛生上の効果は保障される。
この効果をルームチューニングにそのまま適用しようとすると、「自分が気に入るか分からないが、客観的には良い」と考えられる音響処理を進めていくということになる。
その考え方だと音響処理というのは部屋設計の絶対最優先事項ではないと考えられる。
やった方が特性上はプラスに働くと思われるが効果がどこまであるのか分からない、というものであれば居住性が確実に犠牲になる場合に犠牲を払ってまで音響処理をやるべきではないと考えられる。
実際にはどういう場合かというと、音響処理は比較的効果が大きい場所と比較的小さい場所がある。効果が小さい場所でかつ居住性に支障が出る部位に関しては音響処理よりも居住性を優先させてよいのではないか。具体例で言えば一次反射面以外の床などが挙げられる。
③資金と時間と情熱を注いだシステムならそれに見合う豪奢さが欲しい
この理由単体で機材を購入することはまずないと思われるが、だからと言ってオーディオ機器に途方もない金額と情熱を注いでいる人が「音は良いけれども地味な外観の機材」で満足する例は少ない。
この不都合な事実に関しては別記事にして書く機会を作りたいとは思うが、いずれにしろオーナーがいかにオーディオシステムに情熱を注ぎ込んできたのかというのが一目見れば分かるような豪奢さはオーディオ機器にとってかなり重要な要素である。
では室内音響にとってこの要素はどうか。音響処理として現在では拡散が重要視されている。拡散壁は一般的には特異的な視覚上インパクトの高い外観になりやすく、幅広い周波数を拡散しようとすると相応の大きさや厚さになる。
つまり本格的な拡散体を隠すことなく見せつけるように設置すれば、再生音楽にいかに情熱を注ぎ込んできたのかを一目見れば分かるような豪奢な視覚的効果を持たせつつ、音響処理もできるということになる。
オーディオシステムとして豪奢さを見せつけるようなシステムを志向する人ならそれでいいのかもしれない。ただ自分の考えとしてはそういった志向から離れてきており、機材は見た目が地味でもいいし、目立たせず設置する方がいいと思っている。拡散体もあまり目立たせずに視覚的なカオス感はあまり無い方がいいと思っている。
自分のような考えの場合であれば音響処理は視覚的効果が大きすぎない範囲でやるべきだろうとは思っている。ただこれは結局は考え方の方向性の違いではあるので絶対的なものではないと思う。
④音にインパクトを与えるため癖や歪みを付与したい。
実際にこれをやっているのは上級者なので自分がその域にはなかなか行けないのだが、特性が比較的正しいという音は明確な欠点はなくなるが、案外パンチ力がない心を打つ音になりにくいという傾向はある。
むしろ歪んだ音の方が、少なくとも短期的な試聴では心の琴線に触れることも珍しくない。真空管アンプなどがその一例である。
これは室内音響でも起こりえることではある。キレがいいとかボーカルが前に出るとかそういうものは特性としてあまり良くないこともある。
壁面処理でより好みの音にするという目的で特性上はあまり良くないかもしれない処理を意図的にするというのはあまり無いがアリだとは思う。
特性に縛られない機材の選び方はあるのに、響かせ方は特性に縛られないといけないとは思わない。特性の良くない音だけれども一聴したところ良いと感じたという事象に対して、自分自信のかけがえのない優れたセンスが解釈した感性と受け止めるのか、聴き方を間違えているだけと受け止めるのかということがある。
評価の確立しているピカソの絵を自分は良いと思わないと思うのは問題ないと思うが、世間が良いと評価していない無名作品を自分が気に入るのも問題ないとは思う。
だがピカソよりも無名作品が良いとあたかも揺るがない事実のように吹聴したとしたら、それは自分の感性の過信と思い上がりと言わざるを得ない。
特性を逸脱して癖を付けるとしたら慎重さと謙虚さは必要なのではないだろうか。
ただ、それを備えた部屋をシミュレートするにあたって、部屋としての魅力を高めようとすると室内音響のあるべき要素とバッティングしてしまう事案が複数発生した。
その中で仮想上の理想の部屋であろうとも、ある程度は音響的な妥協をすることも必要であると考え、具体的に妥協すべき部位を考察した。
今回はどのようなポイントを妥協してもよいものなのか、妥協すべきでないのか、今までは感覚で決めていたものをしっかりした価値基準を明確にすることでブレない、応用しやすいものにしていこうという記事である。
コンシューマーオーディオの大前提として自己満足のために行うものである。なので「〜すべき」というのは基本的に存在しない。
他人に関してのスタンスはそうであることに違いないのだが、自己に対するスタンスは別である。仮想として考察している音質的に良好な部屋に関して、音響的に好ましい影響を与えるであろう仕掛けを積極的に付与すべきというのは間違い無くやるべきことである。
ただ、音がいい仕掛けだけをただ単純に付与し尽くしただけでは「ただ音が良いだけの穴倉」になってしまう。
まったく音質向上への配慮がされていない部屋が良いとは言えないが、ただ音を良くする為の仕掛けを極限にまで施した部屋が良いとも言えないので、その間のどこかに理想があると言える。それがどのあたりなのかを考察する。
今回の記事ではオーディオファイルがグレードアップしたいと思いコンポーネントを買い替えたりルームチューニングを行ったりする動機について整理し、その観点から室内音響処理の取るべき対応について考えてみようと思う。
理由はいくつか考えられる。
①再生音楽の特性の向上により、好きな音楽を聴くことで得られる心理的効果を向上させたい。
聴くのが好きな楽曲があって、それを聴いた時に得られる「気分の良さ」や「感動」をより増強させるために良い機材が欲しいと思う。
この希望は根源的には音響に拘る人の最大のモチベーションの理由であり、世の中で行われている大半の買い換えの建前上の理由はこれである。ただ実際はそれが理由とも言えないケースも存在するのも事実と言える。
「好きな音楽を聴くことで得られる心理的効果を向上させたい」というのが理由で室内音響の改善に取り組むのであれば、そもそもそのリスニングルームが居室中の人間に与える心理的効果を良くすることも当然のように大事と言えるのではないだろうか。
「この部屋は音が良くて好きな楽曲がより美しく聴こえるので良い気分になれる。でも部屋自体の雰囲気は異様で居心地の悪さを感じる。」というのではよろしくないと思うのである。
部屋の音響処理によりリスニングの心理的効果にプラスの付与効果は見られるが、居住性の悪さによるマイナスの効果も付与され、折角のプラス効果が相殺されてしまう。
①の理由でリスニングルームを設計するとしたら、居住性の悪い部屋にしてはいけないのである。研究目的の実験室とは明確に正解が異なる要素はここにあると思われる。
②今よりも良い特性になることが期待できる機材を導入することで、保有システムがどのような音になるか興味がある。もしくはより良い特性になっているという安心感が欲しい。
「①」の理由で買い替えができるならそれが理想であるが、試聴や前評判で分かることはごく一部である。
自分のシステムにその機材を組み込んだときにどこまで心理的な向上効果があるのか、聴けば判断できるものなのか、聞こえ方の変化による短期的な印象の変化だけなのか、耳が慣れてもプラスの心理的効果が継続する長期的な効果なのか、そんなものは買って導入するまでは分からないことが大半である。
そのため今の機材よりも特性の良さそうなものに買い替えるというのは一般的によく行われる。自己に対する心理的効果が不明なのであれば客観的な数字に頼ろうとするのは当然と言える。
今考えている仮想のリスニングルームも結局はそれである。特性によって心理的効果を予測しているだけに過ぎない。
もし機材の導入による変化が明確でなかったとしても(もしくはアクセサリーなど細かいところの変更のため明確な変化がそもそも望めないとしても)、前よりも理想的な特性に少し近付いたという心理的満足感や安心感を得ることはできる。精神衛生上の効果は保障される。
この効果をルームチューニングにそのまま適用しようとすると、「自分が気に入るか分からないが、客観的には良い」と考えられる音響処理を進めていくということになる。
その考え方だと音響処理というのは部屋設計の絶対最優先事項ではないと考えられる。
やった方が特性上はプラスに働くと思われるが効果がどこまであるのか分からない、というものであれば居住性が確実に犠牲になる場合に犠牲を払ってまで音響処理をやるべきではないと考えられる。
実際にはどういう場合かというと、音響処理は比較的効果が大きい場所と比較的小さい場所がある。効果が小さい場所でかつ居住性に支障が出る部位に関しては音響処理よりも居住性を優先させてよいのではないか。具体例で言えば一次反射面以外の床などが挙げられる。
③資金と時間と情熱を注いだシステムならそれに見合う豪奢さが欲しい
この理由単体で機材を購入することはまずないと思われるが、だからと言ってオーディオ機器に途方もない金額と情熱を注いでいる人が「音は良いけれども地味な外観の機材」で満足する例は少ない。
この不都合な事実に関しては別記事にして書く機会を作りたいとは思うが、いずれにしろオーナーがいかにオーディオシステムに情熱を注ぎ込んできたのかというのが一目見れば分かるような豪奢さはオーディオ機器にとってかなり重要な要素である。
では室内音響にとってこの要素はどうか。音響処理として現在では拡散が重要視されている。拡散壁は一般的には特異的な視覚上インパクトの高い外観になりやすく、幅広い周波数を拡散しようとすると相応の大きさや厚さになる。
つまり本格的な拡散体を隠すことなく見せつけるように設置すれば、再生音楽にいかに情熱を注ぎ込んできたのかを一目見れば分かるような豪奢な視覚的効果を持たせつつ、音響処理もできるということになる。
オーディオシステムとして豪奢さを見せつけるようなシステムを志向する人ならそれでいいのかもしれない。ただ自分の考えとしてはそういった志向から離れてきており、機材は見た目が地味でもいいし、目立たせず設置する方がいいと思っている。拡散体もあまり目立たせずに視覚的なカオス感はあまり無い方がいいと思っている。
自分のような考えの場合であれば音響処理は視覚的効果が大きすぎない範囲でやるべきだろうとは思っている。ただこれは結局は考え方の方向性の違いではあるので絶対的なものではないと思う。
④音にインパクトを与えるため癖や歪みを付与したい。
実際にこれをやっているのは上級者なので自分がその域にはなかなか行けないのだが、特性が比較的正しいという音は明確な欠点はなくなるが、案外パンチ力がない心を打つ音になりにくいという傾向はある。
むしろ歪んだ音の方が、少なくとも短期的な試聴では心の琴線に触れることも珍しくない。真空管アンプなどがその一例である。
これは室内音響でも起こりえることではある。キレがいいとかボーカルが前に出るとかそういうものは特性としてあまり良くないこともある。
壁面処理でより好みの音にするという目的で特性上はあまり良くないかもしれない処理を意図的にするというのはあまり無いがアリだとは思う。
特性に縛られない機材の選び方はあるのに、響かせ方は特性に縛られないといけないとは思わない。特性の良くない音だけれども一聴したところ良いと感じたという事象に対して、自分自信のかけがえのない優れたセンスが解釈した感性と受け止めるのか、聴き方を間違えているだけと受け止めるのかということがある。
評価の確立しているピカソの絵を自分は良いと思わないと思うのは問題ないと思うが、世間が良いと評価していない無名作品を自分が気に入るのも問題ないとは思う。
だがピカソよりも無名作品が良いとあたかも揺るがない事実のように吹聴したとしたら、それは自分の感性の過信と思い上がりと言わざるを得ない。
特性を逸脱して癖を付けるとしたら慎重さと謙虚さは必要なのではないだろうか。