たすくの空中散歩

七草店主、相沢たすくの農作業や工作や
日々の一喜一憂を記録していきます。

野菜に学ぶ~無肥料、無農薬という生き方~無肥料栽培<4>

2010年12月29日 22時53分06秒 | 一喜一憂

僕たちは野菜が腐って当然と思っていたように、人間が病気になるのも当たり前のことと思って暮らしていますが、ふと考えてみると、自然界には病気というものが無いような気がします。
サバンナの象や、山奥のクマが病気で苦しんでいる姿はどうにも想像できません。

悲しいかな、人間と人間が飼う動物、人間が作る作物だけが病気にかかり、苦しみながら生きて、苦しみながら死んでいくのです。

<東洋医学の考える「病気」>

野菜が病気にならないための秘訣は肥料を余分にやらないこと、自然のもつ完璧なバランスを人の手で崩さない、ということでした。
これは実は東洋医学の考え方とも全く一致します。
東洋医学ではあらゆる病気の起こる原因を「バランスの不和」で考えます。
逆に言えばバランスの整った食生活をしていれば基本的に病気にはならない、と考えます。

「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」

これは、中国最古の医学書『黄帝内経』の言葉ですが、東洋医学には病気になる前の状態「未病」という考え方があり、医者の役割とは「病気を治す」ことではなく、「病気にさせない」ことで、「患者を病気にしたら医者の責任」という言葉があるくらいです。
病人が増えれば増えるほど儲かってしまう、西洋現代医学に爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいものです!

野菜の病気症状が、土や取り込んだ余分なものの浄化作用だったように、人間の病気症状もまた体のバランスを整えるための大切な浄化作用だと言うことができます。
そして病気とは「どこかのバランスが崩れてますよー」「余分なものが入りましたよー」という体からの重要なサインです。
だから病気を「敵」としてとらえ、そのサインを無視して切り取ったり、薬で無理やり抑えようとしたりして、その原因に目を向けない西洋現代医学のやり方は、長期的にみるとあまり賢い方法とは言えないのかもしれません。
というか、洋の東西問わず、患者が治ってしまっては困る、薬の依存者になって繰り返し手術をしてもらいたい、というお金が主役の現代社会の仕組み自体がおかしいのですが…。

そして、西洋医学では不治の病とされている病気でも、東洋医学の考え方で言えば単なるバランスの不和に過ぎません。癌だって全然不治の病じゃないのです!
そもそも生活習慣病の原因は生活習慣にあるのだから、それを治さずして治るわけがないのです。

病気じゃないのが生き物としての当たり前の状態で、病気は「生活を悔い改めなさいよ」という自然界からのメッセージ、死に至る病はその最後通告です。

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ちなみに、この<東洋医学>に対する<西洋医学>、<東洋文化>に対する<西洋文化>という考え方は実は誤りだということに最近気が付きました。
というのも僕には物事をバラバラに考えて根源を見ない、わざわざ人間を苦しめているような、「西洋的」な考え方がどうにもこうにも不自然極まりなく思えて、どうしてそんな考え方が生まれたのだろう?西洋には東洋的な全体で見る考え方は無いのだろうか?と思っていたら、実はちゃんとあったのです!
ところが西洋では特定宗教が政治的権力を持ってしまい、土着の思想や宗教、自然こそが母であり、父であり、神であるという自然崇拝(アミニズム)信仰が徹底的に弾圧、排除されてしまい、「人間」とその本質である「自然」とが切り離されてしまった。
そうして築きあげられたのが、西洋から始まる人類の目覚ましくも破滅的な迷走の近代史だったのでした。

(その宗教では、この世界を「神の支配する人間界」→「神に似せて造られた人間の支配する自然界」のピラミッド構造であると捉え、人間の身に起きる様々な病や災いを、神の教えに背いた罰であったり、人類が生まれながらに持っている『原罪』に依るものであると説明します。そしてそれは、今でも世界で最も信者数の多い宗教です。)

だからほんとは東洋的と呼ばれている「自然の中の人間」の考え方がもともとの人類共通の考え方であって、西洋的と呼ばれているのは一時代的にそこに生まれた異端の考え方で、今たまたま世界を席巻しているだけのようです。
「東洋~」を「伝統~」、「西洋~」を「近代~」と読み替えてみると解りやすいかもしれません。

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<腹八分目の医者いらず>

ではその健康のための正しい食生活とは何か?
それは一言にまとめるなら「自然に生きる」ということで、つまりそれは「楽」に生きるということです。
人間にとって一番いい状態は、ちゃんと人間が「楽」に感じるようにできているのです。

暴飲暴食を抑えることは「楽」に生きていくための重要なポイントです。
必要以上に取り過ぎた栄養分は転じて万病のもとになります。
食べ物を分解することに体のエネルギーが持っていかれてしまう上に、残った過剰な栄養分は体の大きな負担になってしまいます。これは土に含まれた食べ残しの肥料分が土壌を汚染するのと同じ理由です(詳しくは別の項「メダカの飼い方にみる土壌の酸性化」にて書きます)。

実際穀物中心のバランスのとれた食事をとれば、本当に驚くほど少ない量でも人間はちゃんと健康に生きていけるし、逆に病気にもならないのです。(詳しくは、別の項「玄米一粒の革命」にて書きます)。

ちなみにモンゴル出身の馬頭琴奏者、ハスロー先生いわく
「わたしの故郷には何にもないけど、だ~れも病気しないよ」
とのことです。

<過ぎたるは及ばざる如し~余分に与えず、余分に求めない>

無肥料栽培のことを実家で母に話したら
「じゃあ、あなたたちは無肥料栽培ね!」
と、言って笑っていました。

無肥料栽培とは「余分に与えない」こと。
そしてまさに僕等兄弟(自分+妹1)は余分に与えられずに育ったのでした!
(と、言ってもろくな食べ物が与えられなかった、という意味ではなく、「甘やかされずに育った」という意味です。)

うちは決して裕福な方ではなかったけれども、もともと親が無欲な人たちなので、一般的な感覚からすれば貧乏の部類に入る暮らしぶりだったのかもしれないのだけども、それを不自由に感じたことは一度もありませんでした。
それどころか、そういう家庭に育ったお陰で、幸せがお金の量じゃないことを小さい頃から知っていたし、大人になってからも「無きゃ無いで平気なんだ」と知っているので、とても人生を楽に過ごせています。
この世で一番恵まれているのは欲のない人だ、と年を重ねれば重ねる程思います。

そして、そんな相沢家では家族が病気になるということがほとんど無いのです。
だから僕も今までの人生でほとんど薬を飲んでいないし、病院に行くこともほとんどありません。
馬鹿はなんとやら。気楽に生きるのが一番なのかもしれません。

さて、よく誤解されるのですが、自然農法とは畑を放置する農法ではありません。
余計な手を加えない、とは野菜自身の力を信じて「甘やかさない」ということです。
肥料も与えず、土も耕さない。なぜなら、それらはもともと野菜が自分で出来ることだからです。

野菜が自分でできることは極力手を出さない、その上で日陰になっていたら雑草をどけてあげたり、寒そうにしていたら枯れ草を敷いてあげたり、虫が湧いてしまったらその理由を必死で考える。
常に野菜の声に耳を傾けて、野菜がどうしてほしいのかを考え、愛情をたっぷり注ぎます。

あくまで畑の主役は「野菜」だということ。
自分の所有物と思って、自分が育てているなどという驕りを持って育てず、人間が脇役に徹して育てれば、野菜はちゃんと主役としての風格を携えます。

そうやって野菜自身の力を信じて、育つように育つままにまかせてやれば、野菜は伸び伸びと生命力たっぷりに育ち、やがて思いもよらないような立派な実をつけてくれたりもします。

野菜は肥料を与えられなければ自分で手に入れようと、自分の力で生きる力を身につけます。
僕ら人間もすべてが過剰に足りている世の中で、物質的な便利さに頼って生きることで、人間本来の力をどんどん失っているのかもしれません。

自然農法で育てた作物は病虫害や冷害などで周りの畑が壊滅的な被害を受けている時でも、何事もなかったかのように元気に生育しているそうです。

甘やかされた野菜や家畜は、環境のちょっとした変化にも対応できなくなり、何かのきっかけであっという間に全滅してしまいます。それは、人間にも同じことが言えるのかもしれません。

心を澄ませば、自然界はいつでも僕らにメッセージを届けてくれているのです。



ほうれん草初収穫!!9月末に種まきしたのんびり屋さんをやっと収穫です!
大きくなった葉っぱから摘んでゆきます。なんだか野草を摘んでいるみたい。


よくも立派に…(泣)


ゆでただけのほうれん草をつまみ食いしたら、あまりの甘さ、美味しさにびっくり!手前味噌ですが、こんな美味しいほうれん草を食べたのは生まれて初めてでした。写真もう食べて減ってます。


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人間の野菜だけが腐る!?~無肥料栽培<3>

2010年12月20日 08時52分58秒 | 一喜一憂

<人間の野菜だけが腐る!?>

世界ではじめて、不可能と言われていたリンゴの無農薬栽培を実現させた「奇跡のリンゴ」で一躍有名になった木村秋則さんのリンゴは、切って置いておいても腐らずにしおれて甘い香りを発していると言います。
http://www.cheziguchi.com/kimura_sp.htm
木村さんのりんごの腐敗実験

野菜や果物は、放置しておくと腐ってしまうというイメージが当たり前の僕たちにとって、腐らないリンゴはまさしく奇跡のように映るかもしれません。
ですが、ふと考えてみると自然界の植物や木の実はみんな腐らずに「枯れて」いくのが普通のようです。
人間が育てた野菜だけが異臭を放ち、醜く腐っていく?一体全体どういうことでしょう?

<腐る野菜、腐らない野菜>

ではここで「ほんとの野菜は~」に掲載されている野菜の腐敗実験をご紹介してみようと思います。
スライスした野菜を煮沸したビンに入れ、適度にフタを開けながら保管して、時間の経過とともに野菜がどのように変化していくかをみるものです。

まず最初は農薬や化学肥料等を使って育てた「一般栽培」のきゅうりと、自然の有機物を肥料にした「有機栽培」のものと、農薬も肥料も使わずに育てた「自然栽培」のものです。


結果はご覧のとおり、左から自然栽培、有機栽培、一般栽培のものです。
肥料を施して育てた野菜は見るも無残な姿になっていますが、無施肥栽培のものは形を残しています。
同じ実験をお米と柿で試してみた結果でも以下の通り。

「有機栽培の米」⇒腐って悪臭を放つ
「自然栽培の米」⇒甘い香りを漂わせ、発酵して甘酒になる

「一般栽培の柿」⇒カビが生えて腐っていく
「庭先の柿」⇒甘い香りを漂わせ、柿酢になる。

さらにこちらは、別の方のネギの腐敗実験です。
http://www.thanksai.jp/m/blog/index.cgi?mode=individual&eid=123


どうやら、野菜は自然の草木と同じようにもともと腐らないのが本来の姿で、人間が肥料を施して、もとのバランスを崩してしまったものだけが哀れにも腐ってしまうようです。
しかも場合によっては一般栽培のものより、有機栽培の野菜の方が腐敗状況がひどいようです。
では「安心、安全」なイメージの有機野菜とは、実際どんな野菜なのでしょうか?


<有機野菜にもいろいろある>

有機栽培とは、「化学肥料や農薬などに頼らない、昔ながらの農法を復活させよう!」との意気込みで始まったもので、肥料が化学的に合成されたものでなく、動物の糞尿や米ぬか、草木の朽ちた堆肥など、自然にあるもの「有機物」を肥料として育てている野菜ということです。
ただし農薬使用の有無は生産者さんそれぞれで、有機JAS規格認定の農薬の数も年々増えて、現在では29種類の農薬の使用が認められているとのことです。

さらに腐敗実験では、同じ有機栽培でも、肥料の施しかたによってその結果にはずいぶんと差があることがわかっています。
というのは一口に「有機肥料」といってもその種類や施しかたは個人によって様々だからです。

肥料の種類について言えば大きく分けて家畜糞尿などの「動物性」のものと、腐葉土堆肥や米ぬかなどの「植物性」のものがあって、両方を組み合わせて使うのが一般的です。
そして腐敗実験では動物性肥料の割合が多いものほど腐敗状況も臭いも酷い、という結果が出ていて、植物性のものだけでバランスよく育てた野菜なら、無肥料野菜よりも生命力のある野菜に育つこともあるようです。

人間のたべものでも、動物性のものより植物性のものの方が良い、と言われていますが、それは植物性のもののほうが構造がシンプルで分解にかかるエネルギーが少なくて済むから、「楽」だからではないかと僕は考えています。そのことについては、また別の項で書こうと思います。

ちなみに糞尿堆肥は、昔から伝統的に使われていましたが、昔はこえだめを作って長時間かけて完熟・発酵させて虫や病原菌が寄って来なくなってから使っていたそうです。
ところが、現在は化学培養された発酵菌などを使って短期間で畑に入れてしまう場合が多いようです。そこに虫や病原菌が湧くというのは考えてみれば当然なのかもしれません。

というわけで、「安心、美味しい、体に良い、環境に優しい」などのイメージのある有機栽培ですが、その栽培法によってピンからキリまであるということです。


<発酵と腐敗>

さて、腐敗実験の野菜をさらにずっと放置しておくと、やがてどちらも「水」に還るそうです。

「自然栽培の野菜」⇒発酵して酒になって酢になって水になる
「肥料を施した野菜」⇒酒にも酢にもならず、ただ腐って水になる

最終的に行き着く場所は同じ、だけどその過程が違うのです。
ではこの「発酵」と「腐敗」は現象としては何が起きていて、何が違うのでしょうか?

実はこの二つ「微生物が分解によって別の物を生み出す」という同じ現象で、どちらも「腐る」ことに変わりはないようです。

解りやすく言えば、腐って食べられなくなる(敗ける)のが「腐敗」で、腐ってさらに美味しく、しかも長持ちするようになるのが「発酵」ということのようです。
人間目線の勝手な取り決めなのかもしれませんね。

だから「ほんとの~」でも僕のブログでも解りやすくする為に「バランスのとれた野菜は腐らない」と表現していますが、実際には「腐敗しない」が正しい表現のようです。

ちなみに体の中で食べ物がどう分解されているか、腸内環境が発酵状態か、腐敗状態かというのは「大きな便り」や「小さな便り」や「おなら」で判断できるそうです。なるほどー。

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余談:実は前々からブログに書きたかったことがあって、我孫子に引っ越してきてから野菜中心の食事や規則正しい生活をするようになって、食生活の変化を(最初父からもらったイモばっかり食べていたこともあって)一番実感した出来事が「おなら」でした。
プーっとひとガス放出する度になんともいえぬ発酵したような温泉のような良い香り!
もうどんどんおならしたくなってました。
だから、おならが臭いのはおならのせいじゃなくって「食べ物」です。
「汚れているのは土なんです!」 byナウシカ

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<野菜は本来腐らない>

片や人間がバランスを崩してしまった野菜は、虫に食われ、病気にかかり、さらに生命力を奪うものを生み出しながら一刻も早く土に還ろうとします。

片や自然のままの野菜は、生命力を増やすものを生み出しながらゆっくりと長生きをしながら土へと還っていきます。

どちらもそれぞれに美味しい野菜ですが、みなさんはどちらの野菜が食べたいでしょうか?


<無肥料野菜は生命力に溢れている>

もしご近所の自然派食品などを扱うお店に無肥料野菜が売られていたら是非手にとってみてください。
見た目は普通の野菜なのに、びっくりするほど重たいはずです。

無肥料野菜は、野菜本来の力を使ってゆっくりじっくり成長するので、太陽のエネルギーをたっぷり浴びて、実のぎゅっとしまった力強い野菜になります。

なぜ、無肥料の野菜がたくましくなるのか、そのことについて河名さんの解説を原文のまま掲載させていただきます。

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「今まで食べたことがないくらいおいしかった」「びっくりした」
はじめて自然栽培の野菜を食べたお客さまからこんなありがたい声をいただくことも多いのですが、僕はそれについてこう考えています。

野菜だって、野生動物と同じ。本来、エサは与えられるものではなく、自分で捕獲しないといけない環境で生きているため、いつも軽い飢餓状態です。だから、獲物を見つけると必死に追いかけます。そして、自分で生きる力を身につけ、たくましく育っていきます。
なぜ自然栽培の野菜が生命力に満ちあふれたおいしい野菜になるのかというと、人為的に与えられた肥料ではなく、自分の根を一生懸命伸ばし、土本来が持ち合わせた養分を吸い上げて育っているからだと思います。軽い飢餓状態だからこそ、自分で栄養を求めて地中深く深くに根を下ろしていく。そうすることで野菜も強く育ちます。
これが自然界の法則であり、本来の野菜の姿であり、自然栽培において無肥料でも立派な野菜が育つ理由です。

本来であれば、なにも与えない「土そのもの」が肥料の塊であるはずなのです。
根が元気に伸びれば、土壌微生物の動きも活発になって土を温め、柔らかくしてくれるため、植物はさらに根を伸ばせます。根が伸びれば伸びるほど、しっかりと根を張るため、地上に出ている部分も元気に育ちます。おいしい野菜が育つということです。
ここに、とてもいい循環が成り立つようになります。

自分の力で一生懸命育った野菜。おいしくないはずはない、と思うのは僕だけでしょうか?

『ほんとの野菜は緑が薄い』p94~95 「一生懸命育った野菜はおいしい」より

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次回:野菜に学ぶ~無肥料無農薬という生き方~無肥料栽培<4>へつづく…


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すべては肥料の成せる業~無肥料栽培<2>

2010年12月13日 23時11分30秒 | 一喜一憂

<すべては肥料の成せる業>

僕はどちらかといえば「農薬」とか「添加物」等の体に与える影響とかにはそれほど神経質な方ではなくて、体が大丈夫だと言ったものならなんでもパクパク食べてしまいます。
そんな僕が「無農薬で野菜を作りたい!」と思い立ったのは、ほんの数十年前まで無かったものが、今無けりゃ出来なくなっているのは何かおかしい。農薬を使わないで出来る農法こそ本来のあるべき農法なのでは?という思いからでした。

ついこの前まで、農業について全くの無知な素人だった僕から見た近代農業は不自然なものだらけでした。

農薬を使わなければ虫に壊滅的に食われてしまう?
自然界には農薬なんて存在しないのに。

野菜を育てると土が酸性化する?
だったら自然の草むらはどんどん酸性化していってどこも更地になってしまうはずだ。

同じ場所に同じ作物を植えるとうまく育たない?
自然界では同じ場所にタネを落とし、同じ場所で命を繋いでいっているはずなのに。

どれもこれも自然界ではあり得ないことです。
なにか人間が余計なことをしているに違いない。

そしてその余計なことの正体が、実は「肥料」だったのでした。

人類は肥料を使うことで野菜を早く、大きく、好みの味に育てることができるようになりました。
それは初めは小さな喜びでしかなかったはずなのですが、農業が自給の為のものから、利益を得る為のものになるにつれて欲望競争に歯止めが利かなくなってしまいました。

より早く、より大きく、より甘く。
肥料はそれを実現させてくれたけど、そこにはちゃんと代償があったというわけです。


<虫は肥料を食べにくる?~「虫が食べるほどおいしい」という誤解>

さて、無農薬で家庭菜園をやっている人たちにとって、虫食いがあるのは仕方のないこと、むしろ虫たちが食べたくなるほど美味しい野菜の証拠なのだ!という慰めにも似た考え方がまかり通っていますが、果たしてそれは本当なのでしょうか?
もしそれが本当なら、庭先になる甘くて美味しい柿は全滅させられてしまうように思いますし、自然に元気に生えている野草にも美味しいものはたくさんあります。
そもそも、人間の美味しいと虫たちの美味しいは一緒なのでしょうか?

作物が肥料過多になればなるほど病害虫の被害が激しくなることは一般的にも知られていますが、このことを自然農法では、「人間が施した余計なものを虫たちが食べに来ている」と考えます。
事実無肥料で育てた僕の畑の野菜は、周りの肥料も農薬も使った家庭菜園の野菜と比べても明らかに病害虫の被害が少なくとても元気に育ってくれました。


↑ビギナーズラックキャベツ?完全無農薬でもこんなに綺麗。とっても美味しいけど虫食いゼロです。(外葉は虫食いありますよ!さすがに!)

人間の体に自然治癒力があるように、自然界には、不自然なものを自然な状態に戻そうとする力があります。
なぜなら、不自然な状態はエネルギー効率が悪く、「疲れる」からです。
自然という一番「楽」な状態に戻そうとするのです。

だから自然界の視点で見たとき、病害虫は土から「人間の施した余計なもの」を食べて、分解してくれるありがたい存在ということになります。

つまり人間たちが忌み嫌って「害虫」や「病原菌」と呼んでいるものたちこそが、人間の壊してしまった自然を一生懸命治そうとしてくれている、自然界のお医者さん的存在だったのです。

宮崎駿監督が、風の谷のナウシカやジブリ作品を通して伝えようとしていたことは、どこか遠い時代の空想の物語なんかではなく、ぼくらが生きている現実世界で今も起きていることだったようです。


<「全体」の中の「部分」>

それにしても自然界とは、本当によくできているもので、僕は東京にいた時ベランダでトマトを育てていたのですが、土に栄養を与えようと腐葉土を足したとき、最初に実っていたトマトが尻腐れという病気にかかって腐っていってしまいました。
そして、その実が時間をかけて腐って落ちてから、あとからついた実はちゃんときれいに大きく成長していったのです。
どうやら最初の実が、自分の体を犠牲にして僕の施した「余計なもの」を分解してくれていたようです。
先日の大豆の収穫の時も、房を開けると、ふたつ入っているうちの片方は朽ちていても、もう片方は立派に実っている。共倒れには決してなっていない。
こういった自然界の不思議な連携プレー、全体を残すための知恵は普段からあらゆるところに垣間見れます。
(それに比べると、自分の損得ばかり考えて、奪い合って、結局お互いに衰退したりしている人類が恥ずかしくなってしまいます…。)


↑つまりこんな感じです


『風の谷のナウシカ』

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は
数百年のうちに全世界に広まり
巨大産業社会を形成するに至った
大地の富を奪い取り大気を汚し
生命体をも意のままに作りかえる巨大産業文明は
1000年後に絶頂期に達し
やがて急激な衰退を迎えることになった
「火の七日間」と呼ばれる戦争によって
都市群は有毒物質を撒き散らして崩壊し
複雑高度化した技術体系は失われ
地表のほとんどは不毛の地と化したのである
その後産業文明は再建されることなく
長い黄昏の時代を人類は生きることになった

~宮崎駿「風の谷のナウシカ」プロローグ


巨大産業文明の群れが時の闇の彼方に去ってより千年、セラミック時代終末期。
蟲(むし)たちのみが生きる有毒の瘴気を発する巨大な菌類の森「腐海」に、地表は静かに覆われようとしていた。
人類とあらゆる自然を飲み込む腐海の意味とは?大量発生した王蟲(オーム)の群れが向かう先には何があるのか?宮崎駿監督が13年の歳月をかけて書ききった渾身の長編漫画!

一般的に知られている風の谷のナウシカの映画版は、オリジナルの漫画版全7巻のうちの1~2巻にあたる導入部分を編集したもので、物語の核心はむしろそこから始まります。
これからの時代にこそ読まれるべき大傑作!まだの方は是非チェックを!


次回:衝撃の真実、人間の野菜だけが腐る!?~無肥料栽培<3>へ続く…


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「ほんとの野菜は緑が薄い」河名秀郎~無肥料栽培<1>

2010年12月09日 23時01分54秒 | 一喜一憂



肥料をやらずとも野菜が育つ理由については、実は前回の「不耕起栽培法」にてお話していました。
本来ならば自然界の作る「土」そのものが肥料なのだということ。
つまり無肥料栽培法とは、肥料を与えない農法ではなく、「自然界に肥料を作ってもらう」農法ということです。

さて、ただ無肥料でも野菜が育つ、ということだけならこの話はここでおしまいです。
ところが、この自然界の作る「土」という完全にバランスのとれた肥料で野菜を育てることによって、驚くべき事が起こるようになるのです。
というか、ほんとは人間の作る野菜に起きていることの方が驚くべきことなのですが…。

とにかく、そんな僕の頭の中の天地をひっくり返すような衝撃を与えてくれたのが、この本「ほんとの野菜は緑が薄い」(日本経済新聞出版社)でした。

著者の河名秀郎さんは無肥料野菜に関わり続けて30年近く。現在は「ナチュラル・ハーモニー」という会社を立ち上げて全国の無肥料栽培の生産者と消費者とをつなげる流通のお仕事をしています。

以下この本の目次です。

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「ほんとの野菜は緑が薄い」河名秀郎

プロローグ ほんとの野菜とは?

買った柿は「腐る」庭先の柿は「枯れる」
「姉の死」をきっかけに、野菜について考えた
不純物を入れない、不純物を出す
なぜ自然栽培でなければいけないのか

第一章 野菜は本来、腐らない

庭先の柿とスーパーの柿のちがい
虫と人の「おいしい」は同じなのか
肥料を使わなければ、虫は自然にいなくなる
雑草はいずれ生えてこなくなる
野菜の病気も、大切なプロセス
腐る作物と発酵する作物
腐る野菜と枯れる野菜、どちらを食べますか?
命のリレーができない野菜が多売されている
生命力あふれる野菜が教えてくれること

第二章 ほんものの野菜を見分ける~農薬と、肥料について考えたこと~

いちご農家は、いちごの表面をむいて食べる?
土にもタネにも、農薬は使われている
有機JASマークが付いていれば無農薬なのか
「輸入野菜より国産野菜」は本当か
無農薬なら安全なのか
牛が知っていた自然な野菜と不自然な野菜
緑が濃い野菜は体に良いのか
肥料はなんのためにある?
化学肥料じゃなくて有機肥料なら良いのか
有機野菜のショッキングな事実
腐る有機野菜と腐らない有機野菜
おいしい野菜とは、プロセスを経た野菜である

第三章 肥料は無くても野菜は育つ~土について考えたこと~

どうやったら無農薬無肥料で野菜が育つのか
「土から不純物を抜く」ことからはじめる
異物の入った土には「肩こりや冷え」が溜まっている
有機野菜の落とし穴
土の「凝り」をほぐす方法
人と自然がコラボすれば、野生よりもおいしい野菜が育つ
土がきれいになれば、ミミズは自然にいなくなる
歴史のある土がおいしい野菜をつくる
土がちがえば、できる野菜もちがう
同じ畑で同じ野菜をつくり続ける
地元でも大きな収穫量をあげる自然栽培の田んぼ
「不耕起栽培」との違いは
一生懸命育った野菜はおいしい

第四章 その野菜、命のリレーができますか?~タネについて考えたこと~

タネを水に落とすと、水が青く染まる?
キュウリから白い粉が出るのは自然なこと
子供を残せないタネが主流になっている
遺伝子組み換えはこんな身近にある
「遺伝子組み換え不使用」表示の裏側
品種改良の実情
タネなしフルーツの背景には
タネを採り続ければ思いがけないプレゼントがある

第五章 「天然菌」という挑戦~菌について考えたこと~

市販の味噌を食べられない人がいる
天然菌を使っていない発酵食品
その菌は作られている
天然菌と作られた菌はなにがちがうのか
菌は「業者から買う」のが当たり前
菌にも地域の味がある
天然菌の復活その① 昔は蔵にいた
発酵文化の衰退は四百年前からはじまっていた?
天然菌の復活その② 天然菌の自家採取の再開
素材の大豆に生命力がなければよい菌は付かない
天然菌の復活その③ うまみの四重奏
化学物質過敏症の人でも食べられる
だしがいらない味噌汁
天然菌で広がっていく発酵食品いろいろ
納豆の旬とは?
味噌汁は自然が作った完成形
菌は人間に必要なもの

第六章 自然は善ならず~自然界を見つめなおして思うこと~

できることから少しずつ、でかまわない
「植物を食べる」ことの意味
野菜の栄養価は昔より落ちている
戻るのではなく、進む
不自然を自然に戻すちから

第七章 野菜に学ぶ、暮らしかた~自然と調和して生きるということ~

野菜と人は同じ、と考えてみる
健康法は「入れない」そして「出す」
風邪をひいた社員を褒めまくる
クスリを心の拠りどころにはしない
自然栽培を手本に、アトピーと闘う
栄養素という概念をとりあえず捨てる
イヤだと思うものに、あえて感謝の気持ちを持ってみる
こころに凝りを作らない方法
善い悪い、はない
ファーストフード一日四食からでも遅くない

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では、この本を参考にしながら、現実版「風の谷のナウシカ」、無肥料栽培の世界をご紹介してみようと思います!




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不耕起栽培法

2010年12月03日 22時02分26秒 | 一喜一憂

畑作業のことを「農耕」というくらいで、農作業の基本はまず耕すこと。
その耕すことをしないのが不耕起栽培法です。

「もし耕さなくても良いのなら、とっくに誰も耕さなくなっているはずだ。」
ごもっとも。

でも実際には、少なくとも家庭菜園でやる分には「耕さなくて良い」ばかりか「耕さない方が良い」のです。
そんな楽々不耕起栽培法を水口文夫さんの『家庭菜園の不耕機栽培』(農文協)を参考にしながら、解説していってみようと思います。


<つらい耕うん作業>

畑をやっていてとにかく一番大変なのが、最低でも春夏年二回の耕うん作業です。
僕も父の畑の手伝いでやりましたが、まず前作の残さの片づけに始まり、土を掘り返し、堆肥や鶏糞、米ぬかなどの肥料を施し、今度はその重い土を何度も何度もかきまぜてウネを立てます。

足腰のにはまだまだ余裕のある、働き盛り(?)の僕でもクタクタになります。
これが父の小規模な家庭菜園のさらにごく一部分だったからよいものの、それなりの広さを有する商用農家さんだったり、おじいちゃんおばあちゃんだったりしたのなら、耕うん機なしの農作業など考えられないことでしょう。

さて、このつらい耕うん作業をしなくても、するのと同じかそれ以上の収量をあげられるなんていう、そんな都合のいい話が不耕起栽培法です。


<自然界の植物はすべて不耕起だ>

ではそもそも、耕す目的とは何でしょう。
土をやわらかくして根張りをよくするため?土に酸素を送るため?肥料を鋤きこむため?
いろいろと諸説はありますが、では自然の草木が、耕さずとも肥料をやらずとも毎年立派に育つのはなぜなのでしょうか?


<根が耕し、根が土をつくる>

実際踏んで確かめてみるとわかるのですが、耕した畑の土と、人の手の加わっていない草むらや山の中の土とを比べると、実は柔らかいのは後者なのです。
正確に言うと、人工的に耕した土は、耕した直後から雨が降るたびにだんだん固くなっていきます。なので、耕すときにもみ殻などを一緒に鋤きこんでフカフカを保とうとしたりするのですが、そんな手間をかけずとも草ぼうぼうの自然のままの土や枯葉の積み重なった林の土などは一年中雨が降ろうが日照りになろうがフカフカのままです。
それはなぜかと言うと、実は土の中で植物の根やミミズや微生物たちが一年中耕してくれているからなのです。

どんな植物でも地表の茎葉と地下部の量は同じだと言われています。
つまり地表にたくさんの植物が生えていれば地中にもその同じだけの量の根がぎっしりだということ、そうして土いっぱいに網の目状に深く張り巡らされた根は地表の植物が枯れて朽ちて堆肥(肥料分)として土に還るとき、同じように土の中で朽ちて肥料分として土に還ります。
だから自然界ではわざわざ土に肥料を鋤きこむ必要などないのです。

さらに網の目状に張り巡らされた根が朽ちると、その根のあった部分が空洞化して、土がスポンジ状になります。
だからわざわざ掘り起こして土に急激に酸素を送り込まずとも、スカスカの空洞を使ってちょうどいい案配に土にも空気が送り込まれることになるのです。

さらにそうして人が手を加えないことによって、土中の大小あらゆる生き物にとっても土が快適になり、たくさんの生物が棲みつき、命のエネルギーに満ちてくるようになります。
そして、微生物たちの活動も活発になり、畑の土として理想とされる団粒構造が発達します。
(※団粒構造:保水性、排水性、通気性、保肥力を兼ね備えた植物の育成に理想的な土の状態。微生物が有機物を分解する時に作られる糊状のものが土を小さな団粒状にする。)

と、ここに書いたことはあくまで一例であり、書き出せばきりがなく他にもいろんな効果が秘められているものと思われます。自然界の機能はいつでも無限大なのです。

さて、このように人間が耕すよりも、自然界に耕してもらう方が圧倒的に深く、上質に、完璧に仕上がるということがご理解いただけたかと思います。

つまり不耕起栽培法とは、耕さない農法ではなく、自然界に耕してもらう農法のことなのです。


<不耕起栽培のポイント・メリット>

今まで話してきたように、不耕起栽培のポイントは土中の根をうまく利用することにあります。
なのでとにかく地表には雑草でも野菜でもなんでも生やしておいた方が良いのです。
地表が丸出しになっている状態はなるべく避けたいです。
もし邪魔になったり、周りの畑の迷惑になるような雑草があったら根を土の中に残し、地表スレスレのところで刈り取りましょう。
土を動かすのは畝を作りかえるときくらいですので、刈り取った草や野菜の残さはそのまま畑に撒いておき、形のあるうちはマルチとして活用し、やがて朽ちると天然の肥料分となります。
そもそも土とは、このようにしてできるのです。

参考ブログ記事『雑草マルチ大作戦』http://blog.goo.ne.jp/nora_tasuku/e/45bad82032fc2a3b110cefb24d2516bb

だから不耕起栽培なら、わざわざ堆肥を作る場所を確保したり、何度もかき混ぜるような手間も要りません。
枯れ草や野菜の残さは、土の上に置いておくだけで、朽ちたものから自然と土に還っていきます。
不耕起の畑なら、畑そのものが堆肥づくりの場所なのです。

そして、耕す必要がないので、収穫して空いた所にどんどん次の作物を植え付けていくことが可能になります。
不耕起の畑は「とる・まく・植える」の三拍子で、家庭菜園にはうってつけ!
おじいちゃん、おばあちゃんにも誰にでも楽々なのです。


<苗で植える場合のポイント>

苗は若い状態の、根張りが元気な状態のほうがいいようです。
根がポットの中で伸びきってぎゅうぎゅうになっている状態では、不耕起の畑だと根張りが難しく野菜へのストレスにもなってしまいます。


<ウネ立ての必要性>

不耕起と言ってもまったく土を動かさないわけではなく、必要に応じてウネ立てもします。

僕はその効果のほどは未確認ですが、水口さんの本では、乾燥を好んだり嫌ったりする野菜によってウネの高さを変えてあげることが重要だと書いてあります。

僕個人的にはウネを立てる必要性ってどのくらいあるのかな~と疑っていますが、今のところ野菜のためというよりは、人間のために立てています。
ウネが立っている方が、虫とりや草むしりなどの作業がしやすく、また、通路があることで自分以外の人が畑に来ても足の踏み場が分かりやすくなりますし、なにしろ自然農の畑は、見た目にはただの草むらのようなものですので、ウネでも立てて「ここでちゃんと畑やってますよー」という周りの人への意思表示というのが一番大きいような気がします。


<人類と野菜と耕うん>

実は、人類が作付けのたびに全面的に畑を耕すようになったのは、農業の機械化が進んだ最近のことらしく、それまではウネの使い回しなどの不耕起栽培が当たり前で、「必要に応じて部分的に耕す」くらいのものだったようです。

そもそも、なんで人類はこんなにも耕すようになったのか。
それはおそらく、近代化という西洋一神教的な一連の風潮、「人間は自然界の支配者」という考え方のもと、農業の機械化、商業化が進んだことによるものと思います。

どうやら、人類が耕すことを選んだのは、野菜を自分たちの支配下に置いて、コントロールしようとしたかったからのようです。

耕すことで、土のしくみを壊して、自然との繋がりを切り離し、仮死状態にします。
そうして、土としての役割をひとしきり失ったところに肥料を入れて、自然に作ってもらうのではなく、人間の手で野菜を作りたかった。土と野菜を人間の所有物にしたかったのかもしれません。

哀れにも、知恵の実を食べて楽園を追放されてしまった人類はそのようにして、しなくてもよい労働を神様から与えられてしまったわけです。


次回:なぜ無肥料無農薬で野菜が育つのか?「無肥料栽培法」の解説へと続く…


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