たすくの空中散歩

七草店主、相沢たすくの農作業や工作や
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自然の力、生命の力、肯定の力(5)~あいまいな量子part.3

2011年08月30日 07時29分16秒 | 一喜一憂

これまでの記事
自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1
自然の力、生命の力、肯定の力(4)~あいまいな量子part.2


<すべてはひとつ ~色即是空 物心一如 梵我一如~>

今まで物理学、科学の世界では、「現象」とそれを「観測する」ということを、別のものとして考えてきました。人は自然界を外側から観ている、自然現象とは別の存在だととらえていたのです。

量子論が画期的だったのは、現象とは観測者がいてはじめて成立するもので、ありのままの、あらかじめ用意された自然現象なんてものは存在しない、観測者も観測現象の一部であり、そこに境界線をひくことはできない、という新しい認識を物理学に持ち込んだことでした。

自分が影響を与えない「ありのままの自然」なんて存在しない。
自分の周りで起きていること、
自分に対して起きていること、
すべては自分の一部であって「自分」と「自分以外のもの」を分け隔てる境界線は存在しない。


古代、人は物と心、物質と精神は同じ一つの「モノ」の別の状態であり、そこに境界線は引けないと考えました。
そして、この世界、森羅万象とは何か?という果ての無い問いかけに対して、自分の内側の世界と、自分の外側の世界とが同一である、という極めてシンプルな答えに辿り着きました。

振ったサイコロの目にも、めくったカードの絵柄にも、そこには単なるランダムや偶然を超えた「何か」が存在する。
その「何か」を感じ取れるようになった時、人生というギャンブルの面白さは「そこ」にあるのです!


<ありえないことなんてありえない>

あいまいであることから導かれる自然界の持つ本質の一つが「無限の可能性」です。
そのことを現実的に示すものの一つにトンネル効果というものがあります。
これは絶縁体の中の電子がごくまれに絶縁体の外へとすり抜けてしまう現象で、実際にこのことを利用したトンネルダイオードなる電子部品もあるそうです。
信じられないことですが、これは壁に向かって投げたボールが壁をすり抜ける可能性が「全く無い」のではなく「ほとんど無い」だけであることを示しているのです。
可能性が「ゼロ」なのか、ゼロに限りなく近くても「ゼロでない」のかの間には、実に「無」と「無限」との差があるのです。

*トンネル効果について、Wikipediaで解りやすく説明されていました。(11/25追記)

さて、この自然界では、科学的に説明のつかないとされる不思議なことが数多く目撃されています。
そのようなことに「科学的根拠が無い」とか、「科学的に言って絶対有り得ない」等と言っている人は、科学について、義務教育に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないことを暴露してしまっていると言えます。

可能性”0”が存在しないこと、この世界に「ありえないことなんてありえない」ということは科学的にとっくに明らかになっていて、この世界は”科学的に言って、何が起きてもおかしくはない”のです。

そもそも科学法則なんていうものは、先に自然界があって、その中から人間が法則性を見つけてきて、便利に使っているだけであって、その逆ではありません。自然界が人間の考える法則に、必ずしも従ってくれるとは限らないのです。

量子論が明らかにした自然界の真実。
この世界はAという入力をした時にBという出力がされる、というような機械的なしくみではない。
Aという入力をした時、ほとんどの場合はBだとしても、それ以外である”可能性”を必ず残す。

そして、この機械的な正確さでは持ち得ない”可能性”こそが「生きている」ということなのです。


<和をもって尊しとす>

量子論確立の中心的存在となったニールス・ボーアは、量子論が明らかにしたこの世界の根本的な仕組み、相反するものが同時に存在することで、互いに補い合っている仕組みに「相補性」と名付けました。
そして、その相補性の世界観を表すシンボルとして、東洋の太極図を用い、自分の紋章にもこの太極図を取り入れました。

ものが波と粒子の相補性からなるように、電子と陽子、時間と空間、月と太陽、男と女、生と死、この世界は陰と陽の相反する二要素の補い合いで成り立っています。

そしてこの陰陽説と、前出の五行説とを組み合わせて宇宙万象を表す「陰陽五行説」を建国の骨組みとして造られたのが”大和”の国、「日本」です。

(太極図)


<あいまいな日本人>

世界中見回してみても、日本人ほど「あいまいさ」を重んじる文化は無いかもしれません。
というよりは、明治に急ごしらえで近代化、西洋化された為に、中身が昔ながらの自然の循環の中にいた頃のままな所があって、そのギャップが余計にそれを強調させるのかもしれません。

日本人は、とかく白黒はっきりさせるということが苦手です。
それどころか、白と黒の間、これはよく言われるグレーゾーン=灰色ということではなく、白でもあって黒でもある、というような絶妙な所にこそものの本質があり、最も美しい一点であると考えます。
その0と1の間の絶妙な感じ、数字で割り切れない0と1の重ね合わせ状態は、自然界を機械的にとらえる西洋文化の人にはなかなか伝わりきれません。

その日本人のあいまい好きは、同じ楽器が大陸の西と東でどのように変化していったかを見ると、よく解ります。
これは、震災直前のブログ「カンカラ三味線作り」の続きで書こうと思っていたことなのですが、弦楽器でも管楽器でも、西洋にいくにつれて、より正確で美しい音を目指してどんどん改良されていき、その分楽器の構造としては複雑になっていきます。
ところが日本人は、大陸から渡ってきた楽器を、わざわざ音を安定させるための機構(フレット)を取っ払ってしまったり、わざわざノイズが増えるように工夫したりして、あげく日本の笛にはわざと音がずれるものまであったりして、”正確な音階”が信条の西洋音楽からしたら、実にミステリーでクレイジーです。そして、日本人の手にかかると、楽器はどんどんシンプルになってゆきます。
さらに、不安定になる代わりに、弾き手による微妙なさじ加減、力の入れ具合、個性によって無限の音作りができるようになるのです。

特に尺八は、その音作りの無限さにしても、演奏できる倍音成分の周波数の広さ(自然界の音は耳には聞こえない様々な音から成っており、人はそれを体で聴き、無限量の情報を手に入れている)にしても飛びぬけて世界一で、さながら江戸時代のスーパーシンセサイザーです。
西洋人が尺八の音色の多彩さに、内部構造を調べようと割ってみたところ単なる竹の筒でたまげた、なんていうエピソードもあるそうです。

かたやフルート、かたや尺八。
かたやギター、かたや三味線。

外交においては、優柔不断、はっきりしない、と悪い所ばかりに思われがちですが、これからの時代、日本人のお得意の「あいまいさ」こそが新たな時代の価値観を切り開いていくのかもしれません。


<あいまいな量子まとめ>

ここまでのことを読んで「理解できない」「信じられない」と感じたなら、それはごく真っ当な反応だと思います。
なぜならここで書いたことは、僕らが学校で教わった「物の仕組み」とは大きく異なるからです。

僕らは「モノ」はどこまでいっても「物」であり、この世界が静的な部品の組み合わせの機械仕掛けである、という、物の理を誤解していたころの旧い時代の物理学で、すっかり教育されてしまっているのです。

それは、自然界を造り変え、社会の部品としての人生を送るのには好都合かもしれませんが、あるものをあるがままに見る、人本来の「生きた」人生を送る為には余計な知識と言えます。

それでも量子論は、何人かの人のいろんな書き方を読んでみて、はじめて理解できる(というよりは事実として受け入れる)類のものだと思いますので、ご興味を持たれましたら是非ネットや書籍を通していろいろ読んでみて下さいませ!
きっと物理学と、この世界が、もっと好きになると思います。

あいまいで、自由で、いい加減で、不思議な主人公「量子」と、量子でできた”不思議な世界”のお話でした。




『よくわかる量子力学』 夏梅 誠、二間瀬 敏史:著 <ナツメ社>
オビの文面が、物理学の本とは思えません(^_^;)

 
『図解 相対性理論と量子論』 佐藤勝彦:監修 <PHP研究所> *クリックで拡大
これは解りやすい!物理学の歴史と人類の常識を覆した2大理論をコンパクトに解説!表紙もかっこいい! 



『エレガントな宇宙』 ブライアン・グリーン 著 <草思社>
ニュートン力学→相対性理論→量子論、そして究極の統一理論「ひも理論」まで、近代物理学の歴史をエレガントに総ざらい!

続く…




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自然の力、生命の力、肯定の力(4)~あいまいな量子part.2

2011年08月28日 20時56分20秒 | 一喜一憂

これまでの記事
自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1


<不思議の国の量子>

まず「量子(りょうし:クォンタム)」という言葉は、とびとびの量、量の固まり、というような意味があります。
ある現象から、ミクロ(極小)のスケールではエネルギーがとびとびの値をとる。ということがわかりました。そこで生まれたのが、エネルギーには最小の量の固まり(=量子)が存在する、という考え方です。
そして、そう考えることによって、それまで謎だった他の様々な現象にも説明がつくことが解ったのです。

   (エネルギーの階段の図)

この「量子」という考え方によって、説明がついたものの一つが「光」です。
それまで、光は波だと考えられていました(し、実際そうでもあるのです)が、ある現象が光をエネルギーの粒=量子と考えることによってうまく説明がつくことが解ったのです。

そして、もうひとつ説明がついたのが、原子の周りを飛び交う電子のふるまいです。
電子のふるまいは謎めいていて、ずっと多くの学者の頭を悩ませていましたが、そこにとびとびの量という考え方と、とびとびの量の理由として、粒子である電子が波としての性質も兼ね備えている、と考えることで原子の中身の話がすっかり上手く説明できることが分かったのです。

物理学はこのように、ものはミクロサイズで見てみると、波であって同時に粒子でもある、というような不思議な2面性がある、という結論に直面しました。そしてこのような不思議なふるまいをするものが総じて「量子」と呼ばれています。
つまり、量子とは特定の大きさの粒子のことを指すわけではないのですが、この”量子らしさ”が大きく発揮されるのはよっぽど小さいものなので、たいていの場合「量子」と言ったときには電子や素粒子といったミクロサイズのものを指します。

ところで、ここで言う「波」とは、普段僕らがイメージする波とは少し違います。
つまり、自然界に存在する海のような波は、沢山の粒子が集まって「波」という現象を起こしているものなのですが、この場合の量子が波である、というのは一つの粒子が、一つの粒子でありながら同時に波にもなっている、という不思議な状態なのです。

この、いくら文字で聞いてもわからない不思議な「量子」のふるまいと、その量子力学の明らかにした自然界のありようを理解するのに最適なのが、有名な次の実験です。


<波であると同時に粒である?~2重スリット実験>

   (2重スリット実験の図)

真空状態の実験装置の中に電子銃があり、その前に2つのスリット(隙間)があり、その後方には電子が当たるとカメラのフィルムのように感光して跡を残すスクリーンがあります。

(0)まず、スリットに向けて、光を当ててみます。すると、スクリーンには下図のようなしましまの模様ができます。
このしましま模様は、光が波としてスクリーンに伝わっていることを示すもので、つまりスリットAから出た光の波と、スリットBから出た光の波の、山と山の重なるところが強め合って、谷と谷の重なるところは弱め合うことでできる干渉模様です。

(光の干渉模様)

(1)では次に、電子銃から電子を一粒だけ発射してみます。
するとスクリーンには点がひとつ記録されます。
これは疑いようもなく、電子が粒子としてスクリーンに飛ばされていることを示すものです。

ただ、面白いのは同じ条件で何度電子を発射してみても、電子の記録される場所は一か所には定まらず、あちこちに記録されるのです。

(2) そこで電子をしばらく打ち続けてみると、驚いたことにスクリーンには、(0)の実験のときと同じ、干渉のしましま模様が浮かび上がってくるのです!
スクリーンでの観測結果は、電子があきらかに一粒ずつ飛ばされていることと、同時に波としても伝わっていることを示してしまいました。
一粒づつ飛ばされた電子には強め合う相手も弱め合う相手もいないはずなのに!です。

(2重スリット実験画像)

(3) さらにここで、ほんとのところ一粒の電子がどのように伝わっているのか確かめてやろう!と、スリットとスクリーンの間に電子の動きを見るセンサーを取り付けてみます。
すると様子を見ようとした瞬間、つまりセンサーが電子を一粒の粒子として捉えた瞬間、しましま模様はパタリと起きなくなるのです。

参考動画:HITACHIホームページhttp://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html

一体ぜんたいミクロの世界ではどんなことが起きているのか?世界中の天才たちが考えに考えて、実に様々な解釈が議論されましたが、結果として物理学会の定説として落ち着いているのが

「ものは観測されていないときは”波”で、観測された瞬間に波が収縮(確定)して”粒”として一か所に決定される。」

というあまりに常識はずれなものです。
なにしろ誰も見ていないときのものの状態なんて、誰も見ることができないのです。
言い逃れだと言われようがバカバカしいと言われようが、とにかくそう考えるしかないし、そう考えることで、実に量子は計算どおりの動きをするのです。
ただし、計算で求めることができるのは量子が「ここにいるかも」の「確率」まで。

「ミクロの世界では物のありようが確率的にしか予測できない?」
「物は誰も見ていないときはあやふやで、見た瞬間に物になる?」

これには、一緒に量子論を作ってきた多くの物理学者も猛反対!
物理学会は「あいまい」賛成派と反対派で真っ二つに分かれました。

「ものの動きには、法則に基づいた一つの選択肢しか用意されていない」

これは、近代科学、物理学の大前提であり、「あいまい」とか「ランダム(偶然)」だとかを認めてしまうことは旧い意味での物理学者にとって、自然界に対する「敗北」をも意味したのです。

それまであらゆる常識をぶち壊しまくってきたアインシュタインも

「宇宙原理の根本に“偶然”の入り込む余地は無い。神は宇宙相手にサイコロ遊びはしない!」
と、死ぬまで反対しました。

しかし、アインシュタインの死後、「あいまい」な量子論の正しさが次々と証明されていきます。

つまり、自然界の事があいまいにしか解らなかったのは、測定装置の技術や、人類の無知のせいではなく、自然界が本質的にあいまいにできていたことによるもので、古代哲学の「不正確さ」を否定することで生まれた物理学が、やっとのことで辿りついたのは、皮肉にも自然界の「不正確さ」だったのです。

*アインシュタイン:時間や空間が観測者の状態によって変化する相対的なものであること、重力が空間の歪みであること、物質とエネルギーが同じひとつのものの別の状態であること等、光速に近いスピードや、惑星間など極大スケールの世界において、日常の常識と、それまでの物理学(ニュートン力学)の通用しないこと等を明らかにした。


<あらゆるものは波である>

今回の実験は電子を使ったものですが、このような「波」と「粒子」の二面性は何も電子に限った話でもなければ、ミクロサイズのものに限った話ではありません。

ただし、どれだけ「波」の振れ幅が大きいか(=不確定性、どれだけ量子っぽいか)というのはそのモノの大きさに関係しています。

つまり、野球のボールや微生物などの日常的な大きさでは、ほとんど場所が決まっていて、波としての性質を気にする必要はありませんが、これが原子の大きさになると、原子の大きさと同じくらい場所が不確かになり、さらに電子サイズになると、もう電子よりはるかに不確かさの幅が大きくなり、場所の予測が確率でしか求められなくなってしまいます。

日常サイズでは問題ない「不確かさ」も、ミクロサイズでは大きな誤差となってあらわれてしまうわけです。
そして量子力学とは、この確率の波を計算で求める学問であり、現在のエレクトロニクスのテクノロジーはこの量子力学によって成りたっています。

ミクロの世界を覗いてみて解ったこと、
「もの」は確かめようとすればするほど“あいまい”になっていく。

続く…



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自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1

2011年08月24日 18時10分41秒 | 一喜一憂

これまでの記事
自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2


では、今度は物理学の視点から「もの」について、もっと詳しく見てみましょう。

<「もの」とは何なのか?~古代人の考え方>

「森羅万象の根源」について、古代の人々はあらゆる現象は4~5つの元素(エレメント)によって成っている、と考えました。この考え方は地域によっての呼び方、分類の仕方の違いこそあれ、申し合わせたかのようにどこの文明にも見られる、ほとんど世界共通の考え方でした。
その元素の代表的なものには「風」「火」「水」「土」や、「木」、「金」や「空」などがあります。
ここで、現代的な教育を受けた僕らは漢訳されたこれらの言葉の意味を取り違えてしまいがちですが、この場合の「風」や「火」とは「風」や「火」そのものではなく、「風っぽいもの」であり、「火っぽいもの」のことであり、状態や温度、可視、不可視などの様々なパラメーターを含んだ「なんとなく」の概念であり、あいまいさを残したものです。
ここで言う「元素」とは、僕らのなじみある化学用語としての「元素」とは全く別のものなのです。
そして、それらいくつかの要素は互いに拮抗し、助け合い、さらに移り変わりながら万物が形成される、と考えます。

(中国の五行説)

さて、解りやすくするために「古代の人」という書き方をしましたが、正確に言えば、それは「自然と共に生きる人」のことであり、このような考え方は、世界中の自然と共に生きる人、民族にとっては現役バリバリの当たり前の考え方であって、また、近代化された国においても、その文化の根底を成すものとして、様々なところに今も息づいています。
なぜなら自然の中でうまく生きていくのに、これ以上の当たり前で実用性のある考え方は無いからです。


<アトムを探してどこまでも~近代物理学の誕生>

さて、文明の向上(と、言われているもの)によって、自給自足をしなくてもよくなった、つまり生きるのに「暇」ができた古代のギリシャでも「ものとは何か?」の熱い議論が連日繰り広げられていました。
そこでも、やはり「もの」は4つ、ないし5つの元素から成っている、という考えが主流でしたが、さらに深い洞察を経て、万物は”変わらず、無くならない”ものの最小構成単位「アトム(ギリシャ語で分割できないもの)」の組み合わせから成っており、そのアトム同士の結合と分解によって万物が生成し、また消滅する(したように見える)のだ!という考えにたどり着きました。
その考え方は、自然現象と、それまでの様々な考え方をとてもうまく説明し、かと言ってそのことを確かめられるわけでもなく、実用性も無かったので(考案者も自分で言っている)、あまり一般的には興味の対象にならないまま、2千年近く眠り続けることになります。

やがて古代の自然哲学は、人の暮らしが自然から離れるにつれて無用のものとなり、より「正確さ」を追求する物理学へと姿を変えていきます。

人類の追い求める新たな森羅万象解明のテーマは、「普遍の法則」による「自然界の数式化」。
自然があいまいに見えたのは単に技術、理解の未熟さによるものであって、近い将来あらゆる自然現象は数式によって正確に予測、取り扱いできるようになるに違いない!

時はめぐり、19世紀のヨーロッパ。そのころにはもう人間が自然の一部であるという考え方はすっかり消え失せて、人類が地上の支配者であるという考え方が新しい常識になっていました。

そして、実験装置などの発達によって、アトム論が現実的なものとして証明されるようになります。
万物は無数の粒子と、その結合した「分子」の組み合わせによって成っている!
この粒子こそ、古代ギリシア時代に推測された「物」の最小構成単位に違いない!と、その粒子を「アトム(原子)」と名付けました。

ところがこの粒子、よくよく調べてみると、どうやらまだ内部構造があるらしい。
やがてその粒子が、核になる中心部(陽子、中性子)と、その周りを飛び交う電子(陰子)から成ることが明らかになります。
つまり、アトム(原子)はアトム(分割できないもの)では無かったのです。

さらにその陽子、中性子にも内部構造があり、その構成単位にはクォーク(とある文学書の鳥の鳴き声から)、電子を構成するものにはレプトン(軽い粒子の意味)という名前がつけられました。

そしてそれらには「素粒子(エレメンタリー・パーティクル)」という名前が付けられました。
さらに探してもいないのに、この世界には様々な素粒子が存在することがわかってきて、名前の付け方がさらに混沌としてきます。


(素粒子一覧 http://www.kek.jp/newskek/2003/marapr/higgs.htmlより)

そうして、それら様々な素粒子の多様性と、それまで発見されてきたあらゆる物理法則を一貫して説明するものとして、万物の最小構成単位は”点”ではなく”弦(ひも、ストリング)”であり、「力」をも含めたあらゆる「もの」の多様性は「弦」の振動の仕方の違いである、という「超ひも理論」が現在のところ、長かったアトム探し=物理学のゴールの最有力候補であると考えられています。


<原子の内部のほんとの話>

さて、ものが「原子」の組み合わせでできていることは、誰もが義務教育で教わっているかと思います。
ところがその先の話「原子がどんなものなのか」についてほんとのところを知っている人はかなり少ないんじゃないかと思います。

多くの人がイメージする、学校で教わった原子の構造は下図のようなものだと思います。

(粒子としての原子モデル)

ところが、この図は解りやすく説明するために大幅に簡略化されたものであり、この先の説明をしないということは、原子の構造について、ひいては世界の構造について、致命的な誤解を与えたままにするということなのです。

もちろん、目にも見えない小さな原子の構造を表す正しいモデルなんて実際に「書けない」のですが、「書けない」の意味をもう少しリアルに表現して書こうとすれば下図のようになります。

(量子としての原子モデル)

これはどういうことかと言うと、飛び交う電子の場所が「確率的にしか解らない」ことによるものです。

というわけで、原子の中のほんとの話、世界の不思議な根本原理、「量子」の世界を少しだけ覗いてみましょう!


続く…


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