ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

武士の押領から鵤荘を守る

2022-11-11 11:50:22 | 日記 地域


写真は斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町)です。
斑鳩寺のInstagramには,
「11月20日(日)斑鳩寺にて聖徳太子1400年法要が行われます!当日は庫裡の落慶、聖徳太子孝養像御衣替法要、晋山式、法伝哉奉納があり、法要終了後から孝養像と庫裡の公開があります。」と書かれていました。

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さて,先日,地元の図書館でチラシをもらってきました。
近いうちに行こうとは思っていましたが,
ぜひ行きたい!と思ったのはチラシのこの文を読んだから。
「法隆寺は,鵤荘を治めるために,この地に聖徳太子の信仰を持ち込んだ。
それは武士の横領から鵤荘を守ることになり,やがてこの地にしっかり根付いていった。」

押領(おうりょう)とは、平安時代中期以後の荘園制下において武力などの実力をもって他人の所領や年貢などの知行を侵奪する行為。(押領 - Wikipedia)

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太子町立歴史資料館
聖徳太子没後1400年記念企画展  「法隆寺領鵤荘と聖徳太子への信仰」

昨日,斑鳩寺をチラッとお参りしてから,太子町立歴史資料館に行きました。(写真撮影 許可をもらえば可)
  この絵は,鎌倉時代のものですが,(斑鳩寺蔵・展示はレプリカ)
聖徳太子が推古天皇に勝鬘經(しょうまんぎょう)を講説する様子を描いたものです。
このことにより,推古天皇から播磨国の水田100町歩をいただき,法隆寺におさめたと
日本書紀に書かれています。 
日本書紀 推古天皇条   

そして,聖徳太子はこの地を「鵤莊」(いかるがのしょう)と名付けられ、一つの伽藍を建てられました。これが播州斑鳩寺の始まりです。
と斑鳩寺のホームページにありますが,
古代の鵤荘はよくわかっていません。
鵤荘・斑鳩寺の記録があらわれるのは平安後期以降になります。

鵤荘は,聖徳太子が仏教興隆を祈願して法隆寺に納めた「御起請の地」「太子の聖なる遺跡」と信じられるようになり,
源頼朝による地頭・金子十郎の罷免,
また,その後の下司の相続争いから始まり,
鵤荘の下司職が鎌倉の御家人に譲られ,
さらに,六波羅探題に没収された時も,
法隆寺は聖徳太子ゆかりの品を持って鎌倉まで下り,
結果として,鎌倉幕府が聖徳太子ゆかりの地・鵤荘全体(一円)を法隆寺に寄進するという形で決着が図られました。

しかし,展示を見ていくと,荘園に自らの信仰を持ち込むことは,ごく当たり前のこと・・だそうです。

ん・・・
荘園領主と地頭の争いなどは,まるで高校の教科書にも書かれていることにそっくり!
そういえば,昨年行った,相生・東寺領矢野荘もあったし,
よくあることなのでしょうね。

ただ,当然のことですが,こういうことは,
法隆寺や東寺など荘園領主側の史料や吾妻鏡など幕府側の史料からわかることで,
住んでいる農民の側の史料というのは,江戸時代になってこないと出てこないのでしょう。

さて,
天正8年(1580年)秀吉の播磨平定,知行配分により,法隆寺領鵤荘は姿を消しました。
しかし,聖徳太子信仰は,形を変えながら続いていきます。
真宗寺院と結びついたり,職人の神になったり,
雨乞いに登場したり,(太子町立歴史資料館:企画展「雨をくだされ,おぉてんとう!」2017年9月)
子どもの成長を願ったり・・・

以前,知人が言いました。
「聖徳太子がいなかったのなら,太子町はどうなるの?」
大丈夫です。「聖徳太子」がいなかったとしても,聖徳太子信仰はありますから。

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