ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

田中優子「江戸文化入門」・・・歴史的寒波の日に記す

2016-01-25 07:26:47 | JMOOC
昨年11月に田中優子氏の『カムイ伝講義』についてブログでこう書きました。

江戸時代とはどんな時代であったのか,歴史の教科書や参考書,歴史学者が書いた本,小説,今までいくつか読んだ。
でも,この本では,江戸時代の人間,生きていた人々や生活が見えてきた気がした。(読書メーター:ATSUより)

田中優子『カムイ伝講義』の感想です。

江戸時代の百姓というと,「生きぬよう,死なぬよう」のイメージが大きいです。
かつて,搾取されていた農民,を学んだものとしては,「生きぬよう」が強烈でした。
しかし,中世との比較で考える時,近世は,「死なぬよう」が大きいことを改めて思いました。



先週JMOOCで田中優子氏の「江戸文化入門」が始まりました。
『カムイ伝講義』では,江戸時代の農村・農民観が変わりました。

今度は,江戸時代観,江戸幕府観も変わったような気がします。

鎖国は幕府による貿易統制,国を閉ざすという事はなくても,かなり制限されたもの・・・と思っていました。

しかしこの講義では,朝鮮通信使行列(日本人の間で通信使の行列を祭として取り上げたもの)や,
朝鮮通信使に出された料理(日本料理に見られない食材を対馬藩から各藩に情報を送りつくってもらう)などから,
外国人に接するのが,幕府上層部だけでなく,意外と庶民にまでおよんでいたと言っています。

そう言えば,
室津の「たつの市立室津海駅館」には,朝鮮通信使のコーナーがあります。
朝鮮通信使饗応料理復元、朝鮮人来朝図(贈・神戸市立博物館)などを展示されています。

今まで何度か見たはずです。
「お料理は興味ないわ。」
と素通りしたのです。

今度,室津海駅間に行った時には,朝鮮通信使のコーナーをきちんと見てこようと思います。


参考文献の
田中優子『グローバリゼーションの中の江戸』
おもしろそうです。


今日は,記録的な寒波のため,姫路の朝の最低気温がマイナス5.6度
昨日は115年ぶりに奄美大島で雪
そんな気象の歴史を塗り替えた時に書きました。

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秀吉の手紙 その1

2016-01-22 11:04:33 | 日記
昨日,全国ニュースでも報道していました!

龍野神社にあった秀吉の手紙33通が,東京大学史料研究所で解読され,報道陣に発表されました。

火事にあい,消火の際に濡れて,張り付いて,それでも復原されました。

内容は,いろんな新聞やニュースを見ていただけたら分かる事なので,省略します。

①復原について
昨年,歴博の特別企画展「阪神・淡路大震災20年 災害と歴史遺産 ー被災文化財等レスキュー活動20年ー」がありました。
その企画で,古文書や文化財のレスキューのお話しを岩手県立博物館の学芸員の方から聞きました。また,陸前高田市立博物館学芸員の方とお話しをしました。
私は学芸員ではないので,お話を聞いたり,ビデオを見ただけですが,
その後,歴博や近隣の博物館・美術館の学芸員さんたちは実際にレスキューの方法を実演,勉強しました。

今回の事とはまた違いますが,復原は大変であった事と思います。

②話は変わって,秀吉の手紙です。
室町時代の将軍の文書は,実際に書くのは右筆(ゆうひつ)で,将軍は花押を書きます。
このことは,JMOOCの本郷先生の講義で学びました。
では,「秀吉の手紙」はどうなんでしょうか。

個人的には,
「85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。正親町(おおぎまち)天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞(せんとう)御所造営に使う材木の手配を伊賀(現在の三重県北西部)で行うよう命じた安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。」(朝日新聞より)
がいちばんおもしろいと思ったのですが,
秀吉がしゃべった事を隣で右筆が書くのでしょうか?

③2月26日から龍野歴史文化資料館で展示されるそうです。
歴史はいわゆる英雄だけがつくったものでないことはこれまでの私なりの“歴史学”の勉強から分かりますが,
秀吉の手紙は,直に見て,話を聞きたいです。





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神も仏も大好きな日本人

2016-01-20 13:40:41 | 日記
たまたま古本屋で見つけた
島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』
(こっちは買った本だから後回しにして,)
に出てきた
島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』
(こっちは図書館で借りたから先に読みました。)

書くと長くが,少しだけ

参拝の仕方・・・神社が今の形になったのは,明治以降。
        江戸時代までは,合掌。神仏習合,分けられない。
仏教こそが天皇家の信仰だった。
(そうですよね,日本史の教科書を見ても分かりますよね。)

そして,日本人は無宗教ではないんですね。
「実態としては神仏習合の信仰を保ち続けていても,
信仰を問われたときには,一つの宗教をあげるしかなく,
そこでしかたなく無宗教を選択してきた。」
「日本人は宗教に対していい加減だという認識さえもってきた。
それは,宗教的なコンプレックスに結びつく。
これは,神仏分離が強行されたことの後遺症の一つなのだ。」

中世,近世の「伊勢参詣曼荼羅」などには,
仏教の寺や僧侶もあったり,真言の祈祷所があったりするなんて,ビックリです。

でも,お陰参りのお伊勢さん・・・と思うと,納得です。
コメント (1)
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昨日は震災21年でした。

2016-01-18 14:12:16 | 日記
姫路市内に住んでいる私は,阪神淡路の時,すごく揺れて,子どもの上に本とかが落ちてこないかとドキッとした事を覚えています。

まだ幼児園(保育園と幼稚園の中間的なところ)児だった息子のお弁当を作るために起きようと思ったのに,この日はなかなか起きる事ができず,ふとんの中にいました。
神戸に比べれば,たいしたことがないのですが,それでも震度4の揺れは怖かったです。

神戸の友達の家が全壊したり,
ガス漏れで避難したと後で聞きました。

神戸の親戚は,連絡が何日取れなかったでしょう。
当時は携帯を持つ人は多くはありませんでした。
(何日か後,車の中で避難生活を送っていたという事がわかりました。無事でほっとしました。)


あれから21年たちました。

毎年,1月17日は,ニュースの黙祷にあわせて黙祷していたのに,
昨日は日曜日で,起きる事も忘れていました。
おまけに「七福神巡り」のブログを更新し,
震災は後回しにしてしまった自分が情けないです。


私の中では,「阪神淡路大震災」は“歴史”になってしまったのでしょうか?

反省の意をこめて,
ここに書きました。


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七福神巡り

2016-01-17 15:35:57 | 日記
かつて横浜に住んでいた歴博の職員さんが,
「このへんって,七福神巡りをしないのですか?」

関東では,正月が終わると,観光バスに乗って七福神巡りに行く人が多いらしいのです。
「三浦の七福神とか,・・・狭い道をきゅきゅきゅっと行って,順番にまわるのよ。」
だそうです。

え?七福神巡り?

子どもの時,近所の小さな地域の神社で,“えべっさん”はよく行っていました。
餅投げするのです。

西宮神社のえべっさんは,この前テレビでもやっていましたね。

え?七福神巡り?

と話をしていると,
加古川に住んでいるこの日初めてお会いした女性のボランティアの先輩(すみません,お名前知らなくて)が,
「淡路島の七福神巡りは有名よ。」
と教えてくれました。



神仏信仰事典シリーズⅠ『七福神信仰事典』 宮田登編戎光祥出版

さすが歴博,さがせばいろんな本がありますね。

「「七福神」七つのキーワード  編集部」
によると,成立は室町時代末期だそうです。


そして,「七福」・・・喜田貞吉氏によると,
『仁王護国般若波羅密教(にんのうごこくはんにゃはらみっきょう)』の中にみえる
「七難即滅,七福即生(しちなんそくめつ,しちふくそくしょう)」という文言に由来

七人の神様を集めたのは,
中国の「竹林の七賢」を下敷きにしたようです。
「竹林の七賢」は室町期に禅僧たちに好まれ,しばしば絵にも描かれたようです。

「七」の語は,仏教において特別な位置を占める数で,
神と人をつなぐ畏怖をはらんだ呪術数だそうです。


上方で流行していた恵比寿・大黒の二神を軸に後の5つが加わって,
室町時代末期に京の町衆文化の中で成立した・・・とか・・・。



でも,・・・と女性ボランティアの先輩
「観光バスで行くほどでもないよね。」
そして,
「こちらには,四国八十八カ所とか,西国三十三カ所とかあるから,七福神はそんなに流行っていないんじゃないかしら。」
よくわからないけど,そうかもしれない。
そして,
「四国八十八カ所をまわっているの,今。何年かかけて,少しずつ。
 あっちはまわって,こっちは行っていない,というのもなんかへんでしょ。 
 だから全部まわろうと思って。」

「七福神巡りを調べると,神社があったりお寺もいろんな宗派
 決まりとか規則性とかないのかしら?」
と私が言うと,・・・

職員さん,女性ボランティアの先輩,私の話した結果,

江戸時代までは,神社も寺院もごちゃごちゃ,神仏習合だし,
お寺の宗派も変わる事があるし,
その時の力関係で,どこの寺・神社が七福のどれをまつるかなどは決まったんじゃないかなあ?
(ただし,これは女3人のいい加減な話です。本当はそれぞれに理由があるのかもしれません。)
日本人は,御利益があれば,何でも信仰したのかしら?


世界では宗教で対立したり,テロになったり戦争したりするのに,
大多数の日本人のいい加減な宗教観にびっくりぽんです。



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