ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

播磨のある豪農の住まいと暮らし:その2 日記

2020-09-12 13:50:42 | 日記 地域
「Go Toトラベル東京発着も対象に 10月1日から 赤羽国交相表明」
とニュース。(9月11日)
東京に住む息子は,正月帰ってこられるでしょうか。
(息子の帰省とGo Toトラベルは関係ないですね (;^_^A )

この夏は,コロナの心配,猛暑,
それに,実家の親まで夏バテで
バタバタ忙しく過ごしていました。
幸い,実家の親の方は復活!
ということで,近くですが,興味深いところに出かけることができました。

播磨のある豪農の住まいと暮らし:その2 日記

 前回と同じ,永富家住宅。

永富六郎兵衛定群の日記『高関堂日記』
(文政12年(1829年)~没するまでの33年間,現存22冊)の一部です。


蔵では,本物の『高関堂日記』が何冊も展示されていて,
(数えてくるのを忘れました。)
歳暮進物について(文政12年)などさまざまなことが書かれています。
その中で私が興味あったのは写真の嘉永2年の一揆の記事。
展示に解説もありますが,
以下,プラスして内容を大まかに書きます。
(読み間違えているかもしれません。)

12日,合訴(強訴)があった。
門の外に詰め寄り,飯を乞う。
飯を6斗炊き,門外から河原まで遣わし,
引き取ってもらう。
大塩(姫路市内に大塩という地名があります。そのことかな?)
山本氏のところにいたけれど,
飛脚が来て,このことを聞き,驚天!
すぐさま帰ると,静まった。
脇坂家(龍野藩藩主)が寛文11年(1671年)に初入りして以来の珍しいことである。
もっとも,昨年より,年貢取方が非道だからだ。

というようなことが書いている,かな?

おもしろい!

で,ふっと思って・・・
図書館で借りました。
永富家編集委員会編『高関堂日記』
そして見たのは
嘉永7年,南海トラフの東海,東南海地震

ありました。

地震については,
嘉永7年11月4日 「朝五ッ過,大地震」に始まって,
全部で9行(「八日」で1行使っていますが)
(この活字の本で9行です。)
「当国にても,高砂,加古川,飾(旧字が出てきません)万,網干,赤
 穂海浜,就中大破損也」
という文もありました。

この本,全部で日記等活字になっているとはいえ史料だけで446ページ。
読む元気はありませんが,
永富家に展示してあった史料は,ほかの史料ももう少しゆっくり読みます。



コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

播磨のある豪農の住まいと暮らし:その1 覚

2020-09-11 10:54:15 | 日記 地域
やっと涼しくなってきました。
でも,コロナは相変わらずです。
兵庫県の感染確認者数は,9日は22人,10日は21人。
多かった時は1日で60人ほどでしたから,
減ったといえば,減ったのですが,
人の多いところには,怖くて行けません。

ということで,このたび(9月9日)もたつの市。
我が家から車で20分ほど。
「永富家住宅」です。(重要文化財)
(写真撮影可)

 永富家は江戸時代の豪農。大地主で庄屋を兼ねていました。
脇坂氏が龍野の藩主になってからは,
藩にお金を融通したり,年貢を大坂に積み出すことを請け負ったりしており,
江戸時代終わりごろには,武士待遇,名字帯刀を許されていました。

建物については,さほど関心がないので,とばして・・・。
(すみません。説明してくださったのに。)

蔵の展示,古文書等から。


その1 覚 (展示はコピーです。)

一火用心之事常々大切可致事
(・・・もっともです。)
 (中略)
一子共三十才より内ニ遊山花見
 なとにも手放し遣候儀,無用之事
(え?)
 (中略)
  宝暦四戌年三月 日  永富氏
        喜八郎殿

古文書というのは,翻刻出来たらそれでオッケーではない・・・と
この古文書で思いました。
「覚」の内容自体は,火の用心など,よく書かれているものだと思うのですが,
「子共三十才・・」の部分,
喜八郎さんはどんな人だったのか知りませんが,
頼りなかったのでしょうかねえ。
それとも親が厳しすぎたのか,いやいや永富家が代々厳しすぎたのか・・・,
30才まで「遊山花見」はダメなのですか?
それとも,私が想像する花見とは違うのですね,きっと。
女の人(遊女とか)何人もはべらせてするのが「遊山花見」なのでしょうか?
じゃあ,30才過ぎたら,遊山花見はいいのですか?
きっと,喜八郎のお父さんは,仕事もしっかりできるけど,
遊山花見は好きだったのでしょうか?
・・・
いや,庶民の遊山花見は許されているの?
「宝暦4年」は調べてみると,1754年。
日本史の教科書を見ると,
吉宗の享保の改革(1716~45年)と田沼の政治(1767~86年)の間
んんん・・・

わからないけど,おもしろい!
(独り言です。)
(それ以前に,古文書を読み間違えている?)

他にも永富家の蔵には,
慶長6年(1601年)の検地帳,(表紙しか見ることはできません。)
重要文化財の普請文書11冊;文政2年の「普請入用帖」など
永富六郎兵衛定群の日記『高関堂日記』
(文政12年(1829年)~没するまでの33年間,現存22冊)の一部
など
(これらは,コピーではなく,本物です。)

今回1回ではブログを書ききれません。

ということで,次回は『高関堂日記』より







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする