ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

仏像の歴史(特別展「ひょうごの美ほとけ」の前に勉強)

2017-04-27 10:03:37 | 日記 本
兵庫県立歴史博物館では,今,特別展「ひょうごの美ほとけ」をしています。(~6月4日)
まだ見ていませんが,
少し前から,「仏像の歴史を勉強しよう。」と思い立ち,
いくつか本を見ています。(「読んでいます」ではなく,「見ています」)

以下,私の頭の中です。この程度の理解です。
仏像好きの方,すみません。
馬鹿らしくなって,がっかりされるかもしれませんが,あくまで,私の勉強。
(主に,山川出版社『詳細日本史』,帝国書院『図説 日本史通覧』より。高校日本史です。)

飛鳥文化:北魏様式,百済・中国南朝(梁)様式
白鳳文化:アルカイックスマイルが消える。
    ここまで金銅像,木像が多い。

天平文化:東大寺の仏像がずらり,ほか,興福寺八部衆像(阿修羅像など)など
    塑像(粘土で塗りかためて,白土を塗って彩色。)
    脱活乾漆像(土でだいたいの形を作り,麻布をはり,漆で固める。
          その後,底や背面を切り開き,土を抜き,木枠で補強。
          細部の形を整え,彩色。):高価なので,寺院の代表的仏像

(高校生の時,勉強したはずですよね。断片的にしか覚えていません。)

弘仁・貞観文化:仏像の種類の増加
        (密教における仏の世界,曼荼羅・神仏習合による神像など)
        高校の資料集に,東寺講堂の立体曼荼羅や如来・菩薩・明王・天の登場。
        高校の教科書を見ると,木像ばかりでした。
国風文化:浄土教登場。
     あれっ?浄土教や平等院鳳凰堂は出てきても,
     高校教科書レベルではあまり仏像が出ていきません。
     一木造と寄木造の説明はあります。
     「定朝は,従来の一木造にかわる寄木造の手法を完成し,
      末法思想を背景とする仏像の大量需要にこたえた。」(山川日本史68ページ)
院政期の文化:浄土教の地方伝播としても,中尊寺金色堂などが出てきますが,
       仏像としては,高校レベルでは蓮華王院千手観音像(いわゆる三十三間堂)

鎌倉文化:鎌倉仏教の説明,いっぱい。
     仏像は運慶・快慶など

え?
ここまで?
高校レベルでは,仏像はここまでで,あとは,円空すら出てこない?


そういえば,
図書館で借りてきた『仏像の歴史』
(久野健『仏像の歴史 飛鳥時代から江戸時代まで』)
その章立てを見ると,
Ⅰ 飛鳥の仏像
Ⅱ 白鳳の仏像
Ⅲ 天平の仏像
Ⅳ 平安の仏像
Ⅴ 鎌倉以後の仏像

そうです。
「鎌倉以後」とひとくくりなのです。

なぜ?

分かりませんが・・・

権力の象徴が古墳から寺院や仏像に変わった,と聞いたことがありますが,
それなら,権力の象徴が,寺院や仏像からたとえば城・天守閣にかわった?

国家や有力豪族・貴族のための寺院であり,仏像だったとしたら,
鎌倉仏教は庶民の仏教となり,
金のかかるすごい寺院や仏像でなくなった?
いえいえ,すごい寺院はたくさんありますよね。

鎌倉仏教の教えにはすごい仏像はいらなくなった?

深く調べる気のないATSUですが,
もうしばらく,仏像の本(いや,写真)を見ます。
仏像の種類も勉強しないといけませんね。

もう少し勉強してから,歴博の
特別展「ひょうごの美ほとけ」を見ます。


PS.なぜ「鎌倉以後」とひとくくりなのか・・・
その答えの1つが『山川日本史』にありました。
「これまで多くの文化をになってきた寺院勢力が信長秀吉によって弱められたため,
 文化の面でも仏教色がうすれ,現実的で力感がある絵画や彫刻などが多く製作された。」
(156ページ;「桃山文化」)
「彫刻では仏像彫刻がおとろえて,欄間彫刻がさかんになり,・・・」(157~158ページ)
高校の教科書ってすごいですね。
一度きちんと読むべきかもしれません。  (4月29日追記)

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NHK学園 古文書を読む 応用コース「凶年記」

2017-04-24 14:39:33 | 古文書
今,gooブログでは,
無料でアクセス解析を見ることができます。
「ページごとの閲覧数」も確認できます。

2015年8月「「凶年記」 やっと課題提出」を書いていますが,
なぜかこのページを見る方が結構いらっしゃいます。
課題を解くためのヒントがあるかな?
と思われたのでしょう。
残念ながら,「古文書」のカテゴリーのどのページも課題を解くためのヒントはありません。
すみません。


テキストに載っている「凶年記」はとても長くて,げっそりしたのを覚えています。
げっそりどころか,
テキストを最後まで読まずにとりあえず課題を出しました。

解読実践コース第3回まで終わり,
「生涯教育2級インストラクター 古文書」の資格を取った今の私は読めるかしら?
解読や解説を入れると,28ページ。
一気に読んでみました。
2年近く勉強を続けていると,読めるんですよ,それが。
わからない文字はちらっと「解読」を見ましたし,
なんと,49分19秒16も時間がかかりましたが・・・。

この「凶年記」は素直な文章です。
読めるとそのまま意味がわかります。
時には,何が主語かわからないような古文書もありますが・・・。
「凶年記」は,飢饉の様子がとてもよくわかり,読んでいて,悲しくなります。
(ただし,誇張があるかどうかは私にはわかりません。)

もし,「凶年記」でつまづき,
「古文書,あきらめようかな?」
と思っている方がおられましたら,
「凶年記」はダメだったとしても,
次,やってみてください。

私はNHK学園の古文書,2回目です。
1回は途中でやめました。
今回は「はじめての古文書」からやり直しました。
なぜか急に「私,古文書,なんとなくわかったかも?」という時があったのです。

とは言え,解読実践コース第3回・・・課題が返ってくるのが怖いです。

先日,古文書ボランティアにはまだまだ力不足であることを知りました。
(古文書ボランティアの方とお話をする機会がありました。)
でも,古文書ボランティアの方が古文書を解読し,
ワープロ入力しているところを見学させていただけることになりました。

がんばるぞー!!






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盛本昌広『本能寺の変 史実の再検証』&BS歴史館「秀吉 天下取りへの必勝戦術~奇跡の大返しの謎」

2017-04-12 10:28:52 | 日記 テレビ
読書メーターATSUより
盛本昌広『本能寺の変 史実の再検証』
いったい何が本当なのかわりません。
ただ,盛本氏は,膨大な史料・特に一次史料を分析してこの本を書いているということはわかります。
本能寺の変前の天気も当時の日記から調べあげています。
じゃあ本能寺の変は何ですか?と聞かれてもすきっとしません。
すっきりしないのが歴史かもしれません。

そうです。
本能寺の変もその後のいわゆる秀吉の大返しも盛本氏は再検証します。
大返しではない,当時としては普通なのだと。
「要するに40㎞歩くのを異常なスピードというのは現代人の感覚でしかなく,これに驚いているのを知ったら,過去の人は驚くだろう。秀吉もこのように言われて,びっくりしているに違いない。」(146ページ)

そういえば・・・と思い出したのが,

BS歴史館「秀吉 天下取りへの必勝戦術~奇跡の大返しの謎」(2012年,だったと思います。)
ブルーレイに保存していたんですよ。

これによると,当時,足軽でも装備して,食料を持つと,30㎏増。
これで,山道を走るとなると・・・と言っています。
でも,秀吉は炊き出しをしたため,食料を持ち運ぶ必要はなかった,と。
姫路城にある金銀財宝はすべて投げ出し大盤振舞い。
士気を高めた,と。
あとは,情報をつかんだり,使ったりするのがうまかったことなど。

私には,いったい何が本当かわかりません。
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難しい・・・古文書解読実践コース第3回&女筆

2017-04-12 10:07:30 | 古文書
解読実践コース第3回,難しかったです。
『解説ノート』を参考にしながら読むのですが,
応用コースのように,解読筆写している例文(?)がないので,
似たような文字を例文の中からさがす・・・ということができません。


いつものように「あなたの声」

第3回の課題は,第1回・第2回よりもくずし方が大きく,難しかったです。
「難しい課題に取り組むには,難しいけれども解読されている古文書を見てみよう。」
と思っていた時に地元の県立歴史博物館で「女筆」の古文書を見ました。

仮名中心の散らし書きや,
雁行(がんこう)様式(雁の飛ぶさまのように行頭を少しずつ下げてどんどんずらして書くこと)の文章を見てびっくりしました。

第3回の課題の解読には役に立ちませんでしたが,
いろんな本や古文書があるものだ・・・と思いました。

ところでこのたびの女筆・・・
女性向けの江戸時代の本は活字と照らし合わせながら,何とか読めましたが,(?)
手紙となると,全くのお手上げ状態でした。

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震災遺構と開港150年が同居する街:神戸

2017-04-10 10:44:57 | 日記
1.17希望の灯り

1995年1月17日午前5時46分
阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 町並み 思い出

・・・たった1秒先が予知できない人間の限界
 
(以下省略)


もともと,神戸開港150年に合わせて
『神戸港と神戸文化の企画展神戸・みなと・時空』という
「日本玩具博物館」「陳舜臣アジア文藝館」「鈴木商店記念館」とのコラボ事業として企画展示会に行こうと思っていました。
それに,ブラタモリでやっていた旧外国人居留地を見てこようかなあ~と。

場所を地図で調べていると,
「東遊園地」や「阪神淡路大震災 震災遺構」に目がとまりました。

そういえば,私の頭の中は,30年前の学生時代の神戸から,
現在の神戸までとんでいるのです。

震災があったことも,その時のテレビで見たことも覚えているし,
毎年,1月17日には思い出すのに,
あの時の神戸を見ていないのです。

4月7日
JR三ノ宮駅,降りるとすぐに「そごう」が見えます。
あの日のテレビでは,そごうが圧しつぶされたようになっていたのが蘇ります。

「怖い」
「もし,今地震が起こったら私はどうすればいい?帰れる?」
去年の夏,同じ三ノ宮駅から歩いて神戸市立博物館に行った時にはこんなこと思わなかったのに,急に怖くなりました。

フラワーロードを歩いて南へ。

市役所すぐ南の「東遊園地」へ
毎年,1月17日に黙とうしている場所ですよね。
その南はし,「1.17希望の灯り」がありました。

今は周りは高いビルがほとんど
あの時はどのくらいの被害があったのでしょうか。

歩いて,「震災遺構」へ
あの時,テレビで何度も出てきた阪神高速の圧しつぶされた跡
その橋脚などが残されていました。

ここで予定変更

もう,『神戸港と神戸文化の企画展神戸・みなと・時空』には行こうという気持ちがなくなって,
地図に載っていた「神戸港震災メモリアルパーク」へ

神戸港震災メモリアルパークのあるメリケンパークに行くと,
震災遺構もあるのですが,
「神戸開港150年」の会場でもあるのです。

きっと怖い顔をして歩いていたと思われる私ですが,
「今」に戻ってきました。

震災遺構も見ながら,神戸開港150年も見よう。
神戸は私が大学の時は,「株式会社」と言われるほど発展させていました。
憧れの神戸だったようで,
友達の中には,わざわざ北海道から神戸の大学に来ていた子もいました。

今もハイカラで憧れの神戸のようで,ブラタモリで紹介されていました。

まさに,「震災遺構と開港150年が同居する街:神戸」というのが私の印象です。


メリケンパークでは,「神戸海洋博物館・カワサキワールド」も見てきました。
もちろん,港神戸の展示がありますが,
0系新幹線もありましたよ。だって,川崎重工業ですから。

今度は,開港150年を見るために,神戸に行こうと思います。

でも,私は震災をもう少し勉強しないといけませんね。





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