ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

鵜飼秀徳著『寺院消滅』・・・勉強になりました。

2015-07-27 10:07:38 | 日記
昨年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」で,一向一揆が結構大きく扱われていた。
JMOOCの本郷先生の「日本中世の自由と平等」でも一向一揆を学んだ。
そこから,中世の宗教に興味を持った。

大喜直彦『神や仏に出会う時』や
神田千里『宗教で読む戦国時代』
兵庫県立歴史博物館『播磨と本願寺』などを読んだ。

最近は,地域の寺院を見て回っている。


でも,知らなかった。

高度経済成長で,若者が都市に移住し,農村は過疎化し,
「田舎のお寺は大変だろう」とは思っていた。

一向一揆のあと,
江戸幕府の寺請制度,
明治の廃仏毀釈・・・ここまでは,何となく今までの「日本史の勉強」でわかる。
(でも,こんなに廃仏毀釈がすごかったとは知らなかった。)

その後の,日本仏教の戦争協力
え,ゼロ戦を国に寄贈?
仏教界が目を向けたのは中国大陸での布教?
「「不殺生戒」は仏教の戒律の中でも最も厳守されるべき,要諦である。・・・しかし,仏教界は,天皇制をタテに取って,「方便」と「変容」を重ねていく。」

そして,戦後の農地改革
寺院は地主だった。小作人から小作料を取り,生計を立てていた。それが,農地改革で収入を断たれた。


何度かこの本に関することを書きましたが,勉強になりました。

信仰心がないのに,寺院を見て回っている私は,やっぱり,文化財として,歴史を学び,考えるために,寺院を見て回るでしょう。
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戦前のポスター 「姫路 今むかし partⅡ」 より 

2015-07-24 14:19:51 | 歴博
この特別企画展の詳しいことなどは歴博のホームページを見てください。

戦争へと進む日本の縮図でもあった姫路を思うままに書きます。

まず,入り口入ってすぐの「高橋たつ子さんの描いた姫路の近代風俗スケッチ」の所にあった説明より

「城南練兵場の変遷」
明治7年(1874)大阪鎮代の分営として,城内に連隊が設けられ,その南面,昔の士族邸が並んでいたところを一挙に立退かせての取りこわしで,見事な庭園も樹木も刈取られ,灯篭も押倒し,石も芝生も池にほおりこんで埋めて,坦々たる平地に押しのべられたのである。
終戦近くにもなれば,もう軍部もえらそうなことが言えなくなったのか,この広い練兵場にも芋畠になり,増産増産につとめその甲斐もなく・・・
ー高橋秀吉(1899~1979)著『姫路城の50年』(昭和38年刊)

今回は,この高橋さんのコレクションからの展示が中心です。


戦前の「ラヂオ体操の會」ポスター
日の丸がはためき,割烹着のいかにも国防婦人会っぽい女の人が中心で,拳をあげてラジオ体操を呼びかけている。
たまたま出くわしたご夫婦と話し込んだ。
「ラジオ体操って,戦意を鼓舞するための体操だったの?」
「みんなを集めて集団で頑張ろうってこと?」
「何でも戦争だね。」

そしてもう1枚戦前のポスター「武運長久祈願 観光報国 ハイキングの會」
「ハイキングも武運長久祈願?」
「何でも戦争だね。」
ハイキングの景品の一つに「貯蓄債権」
「これって,何?」
「もしかしたら,戦後には紙くずになったんと違う?」(事実かどうかは確かめていません。)
「どこ行くの?・・・広峰,増位・・・」
あたりまえだけど,姫路城はないよね。練兵場だもの・・・

展示は戦後の写真等もあります。

私はこの2枚のポスターが気になりました。

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不徹寺 尼寺 鰐口

2015-07-22 09:58:48 | 日記
前回,不徹寺に行こうと思ったけど,道を間違えた。
今回はバッチリ!自転車が道を曲がるのを見て,
「あ,こんな所も道だ!」と行ったらすぐわかった。

『網干を歩く』には,「不徹寺は尼僧道場にふさわしい,質素な心洗われる寺院。」と紹介されているが,まさにそんな感じ。
鰐口,見つけましたよ。それも2つ。
両方とも,お地蔵さんの所にありました。
不徹寺は臨済宗妙心寺派の尼寺です。
江戸時代にできました。

お地蔵さんと臨済宗ってどういう関係ですか?
また,わからないことが出てきました。
わからないことだらけです。


話はかわって,
『寺院消滅』に尼僧と尼寺のことも書かれていました。

「尼寺は幕府の本末制度の中に組み込まれ,本寺の「下請け的」役割を担わされていく。前に尼寺は「経済的な自立が難しい」と述べたが,そうした歴史的,政治的な背景が今の尼寺の窮状につながっている。」
そして一方で,幕府から公認された縁切寺(駆け込み寺)があること,そこは,封建制度下のアジール(避難場所)的役割を担ったことも書かれていた。
男性の僧侶は,1872年の太政官布告で「肉食妻帯蓄髪等(にくじきさいたいちくはつとう),勝手たるべし」となったのに,
尼僧は
①尼寺専門の修行道場を出ていること
②剃髪していること
③未婚を貫くこと
④代々続く尼寺に入っていること
不文律として守られているそうです。

ん,女性の私としては,未だに・・・ですか?と思いますね。

不徹寺は今度草抜きがあるそうです。
独自の檀家もあるのでしょう。きっと。墓地もありましたし。
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「寺院消滅」:途中経過 実家の父はお寺の役をしていました。

2015-07-19 06:33:56 | 日記
鵜飼秀徳「寺院消滅」

図書館で予約していたのが,順番が回ってきて,借りた。

まだ,73ページまでしか読んでいないけど,ここまでは,一気に読んだ。

全国に約7万7000の寺院があるそうです。そのうち,無住寺院は約2万,不活動寺院は2000カ寺以上だそうです。

住職がいても,お寺の仕事だけでは収入が少ないから,兼業している住職も多いとか・・・

そういえば,実家の父は,私が10ヶ月の赤ちゃんの時,瀬戸内の漁村から今の実家のある町は引っ越しました。高度経済成長期です。私の祖父は,漁業関係者でしたが,父は臨海工業地帯の工場に就職していました。

父の実家は,本願寺派のお寺の檀家でした。
父の父・母(つまり私の祖父母)は20年以上前に亡くなりました。
父はその家を出ていても,そのお寺の住職が今の実家まで車で20分ほどかけて祖父母の月命日に来てくれて,お経をあげてくれます。
父はほんこの前まで,その寺の役をしていました。

私は子どもの時,その住職の話を聞いたこともあります。
内容は全く覚えていません。
高校入試や大学受験の話もほんの少しですが,聞きました。
だって,その住職は,高校の化学の先生ですから。(私の出身校ではありませんが,同じ学区の高校の先生です。)


父の実家のある村は,狭い狭い漁村なのにお寺はたくさんあります。
昔は,大きな港でしたから。
父は,「足利尊氏が・・・」とか,「大名行列が・・・」とよく言っていました。


寺院消滅・・・人ごとではないのです。
私(女性)には妹しかいません。

あのお寺とのつながりも,父の代で終わるのです。
あの住職に後継ぎはいるのでしょうか?
祖父母の墓・父母の墓はどうなるのでしょうか。


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新田開発場分割証文

2015-07-17 15:02:12 | 古文書
今日は本当は歴博ボランティアの日でした。
でも,台風のため,行けなくなりました。
県内では,被害が出ているのに,ボランティアに行けないぐらいで文句言ってはいけませんね。

ところで,やっとできあがった古文書応用編第3回課題

難しかったです。


「あなたの声」に書きました。

「商人資本の力を借りて新田開発を進め,米の増産を奨励した。」注①
注①「幕府は江戸日本橋に新田開発についての高札を立て,有力商人の協力をうながし,また新田検地を進めた。・・・」
(山川出版社「詳細日本史」199ページ「享保の改革」より)
ところで,この武蔵野御新田は,開発が進んだのですか?現地の農民とたぶん江戸の商人は仲違いしたりしなかったのですか?江戸の商人の田んぼは,小作人に耕作させて,そのあがりをとったのですか?(不在地主?)
続きが知りたいですね。


高校教科書の新田開発が,リアルになった古文書でした。
テキストには,同じ武蔵野御新田の古文書が4つ載っていて,その続編の古文書が課題でした。

新田開発って,現地の農民や寺院・僧侶,金のある江戸などの商人,もちろん幕府などの思惑があって始まるのでしょうね。きっと

今,この武蔵野新田は住宅街になっていたりして・・・?!?
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