ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

室町時代の香美町のオーロラ

2024-05-16 07:27:29 | 日記 地域
最近,オーロラが話題になっていますね。
オーロラについての解説はおいといて,まず,5月15日の朝日新聞地方版「ひょうご」には,
「香美町でも11日夜,オーロラと見られる現象が撮影された。」とあります。
また,国立極地研究所の片岡准教授の「今回,本州で観測されたオーロラの中では最も西側とみられる」との話が載っています。
そして,カラーでその写真も掲載されていました。
でも,私がもっと興味を持ったのは,14日のカンテレ「報道ランナー」でのニュース!
(「newsランナー」に名称がかわっていました。失礼しました。)
香美町で室町時代のオーロラについて書かれた古文書が発見されていたそうです。
同じく片岡准教授によると,応安3(1370)年に香住沖にオーロラが出現した可能性が高いとのこと。
この古文書は来年3月に地元の公民館で公開されるそうです。

今日はとりあえず,ここまで
オーロラについては,また追記していきます。

香美町は兵庫県とはいえ遠い~!
私としては,ぜひ,兵庫県立歴史博物館で展示してほしいです。
できれば,香川先生の解説をつけてください。
先生,これって,室町時代の「怪異」ですよね。

PS.もう少し詳しい記事を見つけました。(5月17日)
読売新聞オンライン 5月16日
「香美でオーロラ 650年前も?」
「史料は,「但馬美含郡卯月嶋山長福寺縁起」と呼ばれる古文書(ただし,江戸時代に書き写したもの)で,香住区一日市にある八坂神社と近くの長福寺の創建にまつわる伝承が記されている。夜に空が輝くという現象が1370年(応安3年)秋に続いたとの記述も含まれていた。」
「同様の記述は,八坂神社と長福寺の由来を記した別の史料「天王御 影向(ようごう) 縁起」(戦前に刊行された『兵庫県神社誌』に収録されていた。)にも記されている。」
「京都でオーロラが同じ年に目撃されていることなども踏まえ,香住でも目撃されていた可能性が高いとする論文を今年3月に(片岡准教授が)発表した。」
・・・つまり,同時代史料というわけではないのですね。
もうしばらく調査(!?!)

PS.本を読んで調べよう!(5月18日)
図書館の本を予約しました。
①片岡龍峰『日本に現れたオーロラの謎 時空を超えて読み解く「赤気」の記録』2020年 (*赤気;せっき)
②岩橋清美 片岡龍峰『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』2019年

もう姫路の図書館から地元の分館に本が届き,昨日借りてきました。(5月20日追記)
①は宇宙空間物理学の先生,片岡龍峰氏(国立極地研究所),②は片岡龍峰氏と歴史学の先生岩橋清美氏(国文学研究資料館)のコラボ!

PS.6月9日の日曜日には,水門が閉じられているのに気がつきました。
田んぼには徐々に水が入ってきています。
近隣は,15,16日に田植えだそうです。
今年はまだ梅雨入りしていません。でも,少しずつムシムシしてきているように思います。
さて,オーロラ
上に,「これって,室町時代の「怪異」ですよね。」と書きました。
しかし,・・・以下,岩橋清美 片岡龍峰『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』から
①『日本書紀』には,推古天皇28(620)年「赤気」の記述あり。オーロラの可能性がある。
②天武天皇即位を契機に天文現象に関する記述がふえる。天文観測に力を入れたと考えられる。
律令制下では天文暦学を司る陰陽寮がおかれている。
③藤原定家の『明月記』によると,建仁4(1204)年オーロラと思われる「赤気」にけっこう詳しい記述があり,「恐るべし 恐るべし」と書かれている。
④『吾妻鏡』によると,仁治2(1241)年,「赤気」か「彗星」か陰陽師や天文道の者を召して議論,結論出ず。
そうなのです。もはや中世から単純に「怪異」という状況ではないことがわかりました。
残念ながら,室町時代のオーロラについては,この本に記述はありませんでした。
江戸時代になると,庶民レベルで記録が残っています。
⑤『星解』に載っている明和7(1770)年のオーロラの絵は,すごいです!!!(ネットで調べたらすぐに出てくると思います。)
⑥『金木屋日記』には,安政6(1859)年におけるオーロラの記述があり,(この時は,世界各地で観測されている。)火事という噂や地震と関連付けた人の話も載っている。 
おおざっぱですが,『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』から興味があった部分だけ,取り上げました。 (6月11日追記)
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旧金毘羅大芝居「金丸座」;残念ながら中には入れませんでした。

2024-05-11 14:52:12 | 日記
伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。
と書いてから,また20日もたってしまいました。
ブラタモリで言っていた「俗」の部分,旧金毘羅大芝居「金丸座」です。

ブラタモリによると,ここでは,江戸時代に富くじが行われていました。
注目すべきはその頻度,出雲では年2回だったけど,こんぴらさんでは月にほぼ2回だったそうです。
中にも入りたかったのですが,まもなく四国こんぴら歌舞伎大芝居,とのことで,入れませんでした。
それにしても,松本幸四郎さんなど,錚々たるメンバーが来るのですね。
NHKのカメラが私が写真を撮っている横に控えていて,
「今,神事やっているから・・」と小声で。
写真だけ撮ってこの場を離れました。

PS. 順番があとさきしますが,下の写真は金刀比羅宮から下っている途中にあった宝物館です。

(中は写真撮影不可)
江戸時代の「象頭山社頭並大祭行列図屏風」ははりついて見ました。
あれっと思ったのが,「蒙古襲来絵詞模本」
宝物館の方は,「この宝物館は日露戦争戦勝を記念して建てられたんですよ。」とのこと。
昨年,3回にわたって私は「地元の神社から戦争と平和を考える・・・」を書きました。
そして,「ひとりごと(「地元の神社から・・」「ちょっと気になる絵馬」等)」を昨年5月に書きました。
今回も,「神社」について考えさせられました。

膨大な犠牲者が出たにもかかわらず,作戦が「成功」と評価されたことで,人的犠牲に対する感覚のマヒが陸軍の中で起きたことは確かである。なるべく人的な被害を少なくして任務を達成するのではなく,犠牲を恐れず任務を遂行することが称揚されるようになった。これは,人的犠牲の多さは指揮官の「勲章」であるといった転倒した意識を陸軍に植え付けることになるのである。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』282ページ)
戦争にはいつの時代にも〈美談〉はつきものであるが,(中略)失敗を失敗と認めず,むしろそれが日本的な戦いである,日本的な軍人の行動である,と変換してしまったという点で,日露戦争とその後のあり方そのものを象徴するものであったといえよう。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』309ページ)

話がこんぴらさんからどんどん逸れていくので,この辺りで終わります。

とはいえ,ずっといきたかったこんぴらさん,
行けてよかったです !(^^)!
やっぱり,行かないとわからない!
今度は,旧金毘羅大芝居「金丸座」の中に絶対入りたいです!

6月には,兵庫県立兵庫津ミュージアムの
企画展「温泉♨と 西国三十三か所巡礼 ーひょうごを巡る旅ー」
に行こうと思っています。
チラシの「温泉を巡る旅」「聖地を巡る旅」っていう言葉がいいですね。
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