ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

趣味どきっ!「旅したいおいしい浮世絵」アンコール放送はじまります!

2019-03-29 15:18:53 | 日記 テレビ
趣味どきっ!「旅したいおいしい浮世絵」アンコール放送が4月2日火曜日からはじまります!

今日は,お昼ご飯を食べながら,
2016年4月からの Eテレ 趣味どきっ!「旅したいおいしい浮世絵」をテレビから録画したDVDを出してきて,
第1回の江戸のすしと第2回の江戸のうなぎをまとめて見ました。

久々に国芳!



写真は2016年7月神戸市立博物館の
「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」
で私が撮ってきたものです。
(写真撮影可でした。)
ちょっと見にくいですが,
おいしそうな大きなお寿司を子どもが欲しがっています!

この絵は,4月2日「旅したいおいしい浮世絵」でメイン(?)で出てきます。

今日は時間の関係でここまで



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「天正十六年七月日」;豊臣秀吉朱印状(刀狩令)〔複製〕より

2019-03-26 15:20:20 | 古文書
古文書解読実践コース第4回課題が先週返ってきました。
「A」でした。

が,

「解説ノート」にも書かれていますが,
「江戸時代の職人たちの意気込みと
用水完成に心躍らされた人々の姿がいきいきと描かれて」いますね。
読んでいてうれしくなりました。

と感想を書いた割には,
たくさん間違えていました。

第5回課題は,昨日提出しました。

第5回「あなたの声」:錦絵「萬々両札のつき留」
で書いたとおり,
「あなたの声」に
「楽しく課題に取り組めました。」
と書きましたが,
・・・
課題が返ってくるのが楽しみです!?!


さて,
先週金曜日から,
兵庫県立歴史博物館の歴史工房という無料のコーナーで
「新収資料の紹介」をしています。

その中でくぎ付けになった史料は
豊臣秀吉朱印状(刀狩令)〔複製〕です。



原品は島津家文書(国宝)で東京大学史料編纂所が所蔵しています。
この度,東京大学史料編纂所が高知県の楮を用いて復元制作し,
普及用資料として全国の関係機関に配布したものだそうです。

刀狩令については,説明はいらないでしょう。
中学の歴史の教科書では,現代語訳したものが載っています。(部分要約)
高校の日本史の教科書には,(山川出版社『詳細日本史』)
島津家文書ではなく,小早川家文書ですが,解読して載っています。

内容は省きます。
翻刻文は,写真の通りです。

いっしょにみていたある人が私に言いました。
「日付ですが,どうして,天正十六年七月日」となっているんでしょう?
日付けがわからないのなら,「七月」で終わったらいいのにねえ。
でも,このような古文書,よくあるような気がするんですよ。」

教科書に戻ってみましょう。
小早川家文書と島津家文書で微妙に違います。
文面は内容はほぼ同じですが,細かい表記が違います。
小早川家文書の方は,
「諸国百姓,刀,脇差,弓,やり,てつはう・・・」
「等」のあるなし,
漢字と仮名文字の違い
そして最後,
島津家文書は「天正十六年七月日」ですが,
小早川家文書は「天正十六年七月八日」です。

じゃあ,ほかの文書は?日付が書いてないのに,
「日」は書いているのがある?

手元にある
たつの市立歴史文化資料館「秀吉からのたより・脇坂家文書集成」(2016年2月)
をざっと見ると,
古文書100のうち,
全く年月日とも書いていないのが1つ,
年が書いていないのは多数,
17.羽柴秀吉定書は「天正十三年五月日」
51.羽柴秀次条書は「天正廿年正月日」
61.羽柴秀次朱印状は「文禄弐年正月日」
の3つが「・・・月日」。

何か意味があるのでしょうか?


PS.3月26日のNHK兵庫県 NEWS WEBより

織田家臣時の秀吉の検地帳発見

(前略)
見つかったのは、表紙に天正8年10月24日という日付が記された18枚つづりの帳面で、兵庫県内の古文書の収集家の男性がおととし、姫路市の県立歴史博物館に持ち込みました。
博物館によりますと、帳面には▼いまの姫路市四郷町明田を示す地名や、▼耕作地の面積、▼課税できる石高などのほか、当時、織田信長の命を受けて姫路市周辺を治めていた羽柴秀吉の家臣の名前が記されているということです。
このほか、記された面積の単位や税率、身分の表記などから、博物館は、この帳面は秀吉が作らせた検地帳の写しだと発表しました。
博物館によりますと、秀吉が天下統一を果たしたあと、1590年代に作成された「太閤検地」の検地帳は全国で数百点が残っていますが、それ以前の検地帳はこれまでに6点しか見つかっていないということです。
(後略)

これは,10月5日~11月24日の
特別展「お城ができる前の姫路」で一般公開されるそうです。(3月27日追記)





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たつの市立龍野歴史文化資料館:「ミニひいな展」&「淡路国指出寄帳」

2019-03-18 14:57:59 | 日記 博物館・美術館...
何度かこのブログにも登場している龍野です。
今,「龍野ひなまつり」がひらかれています。(~24日)

資料館や民家でお雛様が公開されています。



写真は,龍野の町並みです。
前の坂越ではありません。
けっこう近辺にこのような町並みが残っています。

今回は「龍野ひなまつり」の詳細は省いて,
たつの市立龍野歴史文化資料館の展示について

今,常設展以外に2つ。

1つ目は,「ミニひいな展」

入ってすぐは,「天神人形」
菅原道真の人形は全国的につくられ,
お雛様といっしょに飾る地方もあるそうです。(びっくり!)

その奥には,お雛様が飾られているのですが,
関西では,江戸時代から雛道具に竃・水屋などの台所道具を加えているそうです。
子どもの主婦としての練習のためとか,
ままごと道具が発展したためとか言われているそうです。

中に入ると,
歌川芳梅が描いた浮世絵「子供遊十二つき」
全部で12枚。
それぞれの月ごとの絵です。



写真は,3月です。
女の子がお雛様をもっているのがわかります。

ほかにもいろんなお雛様がありますが,このぐらいにして・・・


次は「淡路国指出寄帳」

以前にもブログに書いた龍野神社旧蔵文書の一つです。
この度,県の指定文化財指定に伴って特別公開されています。



写真はその一部。

報告があった検地帳を秀吉が確認して押印しています。

奥付は秀吉の直筆だそうです。

写真部分を読みます。

両こうりのふん
い上万弐千六百石 (弐:すみません,そのままの漢字が見つかりませんでした。)
天正十三年九月十日 印
       わきさか甚内


常設展の方には,文禄4年の検地帳(こちらは指出ではなく,太閤検地)もありました。

普段は月曜日は休館ですが,
今日は「龍野ひなまつり」のため,開館していたたつの市立龍野歴史文化資料館。
よかったですよ。
お近くの方,お雛様のついでにぜひどうぞ。

(写真は一部撮影できないものがありましたが,撮影可の分だけ載せています。)
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第5回「あなたの声」:錦絵「萬々両札のつき留」

2019-03-10 16:33:01 | 古文書
ただいま,
解読実践コース 2018年度C.D 第4回の返却待ちです。
第5回もほぼできました。

いつものように,第5回
「あなたの声」より

錦絵「萬々両札のつき留」

先日,いつも行っている歴史博物館で面白そうなチラシを見つけました。



貨幣博物館の「企画展 江戸の宝くじ「富」-一攫千金,庶民の夢ー」です。
すでにこの企画展がおわっていたので,博物館の方にお願いすると,
このチラシをいただくことができました。

チラシの大画面の錦絵は,「萬々両札のつき留」江戸時代後期
と書かれていました。

まん中の神主が富突錐で富箱の中の富駒をつきさし,ひきあげます。
すると,まわりにいる人々がさわいでいます。
「当りハわしで御座る」
「当りハせつしやで御座る」
「かんぬしさん,しつかり御願申升」
「イヨイヨわつぢか当りで御座候やす」などなど
それを役人のような人が見ています。
「どうでござり升,
 いづれも ほしそふな がんしよくて ござり升」

第5回の課題を見てびっくり!
なんと,「富突興行につき口上之覚」です。

楽しく課題に取り組めました。
(「A」がとれるかどうかは別として)


PS.「升」=「ます」
口語では,「候」ではなく,
今と同じように「・・・ます。」と言うのでしょうか。
「升」のこのような使い方を初めて(?)見ました。
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坂越(兵庫県赤穂市)と奥藤家

2019-03-06 10:18:44 | 日記 地域
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」
江戸時代の酒田の豪商・本間家のことをこう言ったそうです。

先日(3月4日),ふらっと,赤穂市坂越に行ってきました。

江戸時代,
「奥藤家の土地を通るだけで,姫路まで行くことができた。」
(と,坂越まち並み館の職員さん?が言っていました。)
そのくらい,坂越・奥藤家は財力があったそうです。
もちろん,単純に酒田の本間家と比較することはできませんが。


奥藤家

酒屋としての創業は,慶長年間だそうです。
坂越まち並み館の職員さん(以下,職員さん)は関ヶ原のころと言っていました。
江戸時代,坂越は北前船の寄港地となり,
奥藤家は栄えます。
また,赤穂の塩を江戸に運ぶ塩廻船となります。
赤穂の海岸は,塩田があるものの,船を泊める港には不向きで,
赤穂の塩を千種川で坂越近辺まで運び,
大八車に乗せ換え,坂越の港まで運び,
坂越から江戸まで船で塩を運ぶのだそうです。



写真は,文久年間の「長安丸仕切り」です。
これは,「奥藤酒造郷土館」にありました。
こういう史料は,写真を撮りたくなります。

明治になっても,繁栄していた奥藤家。
しかし,明治38年(1905年)塩専売制が実施されます。
翌年には,坂越の塩廻船業は幕を閉じることになります。

でも,めげません。
坂越まち並み館は,大正末期に奥藤銀行坂越支店として開設されたものです。
(写真は,坂越まち並み館)



当時の大金庫が残っています。
(今はぜいたくな物置,と職員さんは言っていました。)

しかし,
戦後の農地改革により,広大な奥藤家の土地は,小作人に売り渡されます。
山川の教科書的に言えば,
「大地主たちは従来の大きな経済力と社会的威信とを
 いっきょに失った。」(山川『詳細 日本史』350ページ)

とはいえ,職員さんによると,
今でも坂越では,奥藤家の土地が多く,
そこに家を建てて住んでいた人が多かったそうです。
しかし,子どもの代になると,
坂越を離れ,都会に出て働き,
親がいなくなっても,奥藤家に地代を払うのはもったいない。
かと言って,
町並み保存のため,
もう住む人がいなくなった家を簡単に壊すこともできない。
かろうじて,
家を壊し,奥藤家に土地を返し,
昔風の家を建てることで,許可されているものもあるそうです。

今,都会で有名なアイスクリームやさんが店を出していて,
休日には,若い人がアイスクリームを食べに来るそうです。

久しぶりに,長々と失礼しました。








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