ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

江戸時代・庶民の収入:『武士の家計簿』他より

2016-09-26 15:13:54 | 日記 本
さて,前回,歴博ボランティアの先輩との話の中で,
江戸時代の町人とかの収入はどのくらいだったのかという話になりました。

まず,見つけたのが,
①日本銀行金融研究所貨幣博物館ホームページ
賃金の一例(関東農村19世紀前半)
武家下女奉公人・・・1年2~3両
町人奉公人・・・・・1年男性2両,女性1両
料理人の賃金・・・・1日300文
ちなみに,江戸時代後期の三貨公定相場:1両=銀60匁=銭6500文
で,
江戸時代の1両は今いくら?
ー答え:簡単には言えません。
お米で換算すると,・・・・63,000円
大工の賃金で換算すると・322,000円
そばで換算,etc.・・・

社会や経済のしくみが今と異なるため,単純に比較できません。
約260年におよぶ江戸時代です。各時期でモノの値段は大きく異なります。
作柄・地域差・・・

要するに,今と江戸時代を簡単に比較できないし,
1両がいくらかなんて単純に言えないということです。


次に見たのが,以前読んだことがある
磯田道史『武士の家計簿』から

この本の内容については,とりあえずおいといて,
天保13,14年ごろの猪山家(加賀藩・下級武士)の男家来,下女の収入。

男家来で,年間給銀:83匁
下女の年間給銀:34.75匁
ほか,毎月50文ずつのこづかい
正月・盆暮れの祝儀
それに,食料はあるので,買う必要なし。
他家にお使いすれば,そのたびに15文の御祝儀


結論:江戸時代の庶民の収入・・・よくわかりません。今と単純比較できません。
ただ,たとえば,江戸に住む丁稚などの町民も浮世絵を買えたことは,今まで勉強してきたことで分かりました。
そして,税のしくみの違い
「町には田・畑はなく,町人は百姓にくらべて,重い年貢負担をまぬかれた」(山川『詳細日本史』)
(ただし,都市機能維持の役割,府役である町人足役などはあり)

自分の勉強になりました。

ところで,猪山家の年収は,
米で換算すると,200~250万円くらい
(それで,男家来や下女も雇うなんて・・・と思ってしまいましたが,)
大工見習の日当から換算すると,1230万円くらいだそうです。
『武士の家計簿』より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひょうごのあゆみ「近代ひょうごの礎」を見て・・・

2016-09-22 14:39:01 | 歴博
先週金曜日のことです。
歴博で,先輩ボランティアのIさんと
ひょうごのあゆみ「近代ひょうごの礎」のコーナーを見ながら,雑談をしました。

①江戸時代のお金を見ながら,
「たとえば,町人で,どのくらいの収入があったのかしら?」

②「詩歌十二景」の「高砂宝蔵」を見ながら,
「この絵のこれって何?」

③そして,「大日本物産図会」を見ながら,絵に描かれている文字を読んで,
「お酒の作り方が書いているみたい?」
「同新酒荷出之図」と書いてあります。
(家で,早稲田大学蔵書目録(ネットで細かく見ることができます。)で調べると,
「摂津国伊丹酒造之図」の続きのような気がします。)
(PS.2枚一組であったことが判明しました。縦長1枚の紙を上下に2分割し,1枚の紙に2枚の絵が描かれていたのです。
 なお,出版届日は明治10年8月10日と書かれているそうです。:9月23日追記)

この浮世絵,歴博では,大きく引き延ばし,のれんのようにしてあり,酒樽の大きさを実物大にしてあるそうです。
姫路の革細工のお店の浮世絵もありました。

「誰が描いたんでしょう?」
「広重だったりして。」
(これも家に帰って調べると,広重でした。
 ただし,3代目で,東海道五十三次の広重ではありません。)

先輩との雑談は楽しいです!

①,②を調べないと・・・
③の文字も変体仮名もあるけど,なんとかなりそう・・・。
拡大して読み直してみます。

3週間後の次の歴博までの宿題です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ 国芳(くによし)」

2016-09-14 14:43:49 | 日記 国芳
もう国芳は終わりにしようと思ったのですが,
11日日曜日朝,
日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ 国芳(くによし)」
がありました。

いつものように,リアルタイムで見られないので,
ハードにとっていたものをさっき見ました。

ゲスト3人と司会の井浦さんまで加わって,
国芳ダンギ!
特におもしろいというかかわいい(すみません)というか,
アートディレクターの祖父江慎さんの国芳談がよかったです。

NHKのホームページを見ていただくとわかるのですが,
「金魚づくしぼんぼん」が好きという祖父江さん,
擬人化された金魚をいとおしそうに話すだけでなく,
金魚が持っていたのが,うちわではなく,金魚すくいの網と知り,
新しい発見に大喜び!
さらに,金魚が手を引いているのが,かえるで,
かえるが持っていたのがうちわではなくオタマジャクシとしり大興奮!

ぞぞっとするぐらい怖いというか恐ろしいというか・・・
それは井浦さんの崇徳上皇
何年か前の大河ドラマ「清盛」で崇徳上皇を演じた井浦さん,
参考にしたのが国芳の
「百人一首之内 崇徳院」
私,以前見ました。井浦さんの崇徳上皇・・・すごかった・・・。

私の一番のお気に入り
「源頼光公館土蜘作妖怪図」の話や風刺の話はありませんでしたが,

国芳を見て,本気で楽しんでもいいんじゃない?!?
と思えました。

ちなみに,9月25日午後8時から再放送されるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鍛冶田遺跡:その2

2016-09-10 06:42:04 | 日記 地域 遺跡
さて,鍛冶田遺跡です。

発掘現場に着き,立ち入り禁止のぎりぎり手前を歩いていました。
2メートル下の(後で2メートルぐらい掘っている,と聞きました。)
片づけをしていると思われるおじさんたちを見ながら。

すると,向こうから,女の人が2人,こちらに歩いてきました。
私が,
「すみません,高いところや低いところがありますが,これは時代の差ですか?」
と尋ねると,
「私たちは勉強のために来ている学生です。 
 ちょっと待ってください,ここの人が説明してくれますから。」
と,現場のすぐ南のプレハブ小屋に入っていきました。
そこから出てきたのは,いかにも現場の責任者・発掘調査のリーダーといった感じの人で,
恐縮してしまいました。

その方の話から…。

今回の南半分は,田んぼがあったと思われる場所です。
前回よりも少し掘り進め,2メートルほど掘っています。
(地層がはっきり見えます。)
年代測定というのは,難しいです。
わざわざ田んぼに土器を捨てる人はいません。田んぼの仕事の邪魔になりますから。
(土器により年代測定ができることは,以前行った県立考古博物館で見たことがあります。)
(カーボンフォーティーンのことを聞くと,)
カーボンフォーティーンによる年代測定も難しいものがあります。
木が見つかったとしても,それが流れてきたものであるかもしれません。
(ここは,揖保川・林田川のすぐ近く,この川の氾濫により土地は恵まれていたと思われます。)
例えば,100の木片を集め,そのすべてでカーボンフォーティーンを測れば,推測できるかもしれません。
しかし,それには莫大な費用がかかります。
そこまでの費用をかける意味もありません。
地層から,見て,2800年から2300年前であろうということはわかりますが,
それ以上の特定はできません。

さらに,いろいろ話をしてくださいました。

今回は縄文時代終り頃から,鎌倉時代までここに住んでいたであろう跡が出てきました。
しかし,ずっと住み続けていたかどうかはわかりません。
川は荒れます。
場所を移します。
(そのおかげで,土地は潤うんですよね。昔,「エジプトはナイルのたまもの」って勉強しましたよね。)
(広いですね,と言うと)
たぶん,県下でも有数の広さだろうと思います。

5分か10分ぐらいは現場を見ながら話してくださったと思います。
私一人のために,時間を割いてくださってありがとうございました。
(たぶん,あとは片づけて,現地説明会をするだけというタイミングが良かったのだと思います。
 いつも説明してくれるというものでもないと思います。)
私自身は,考古学よりも歴史学が専門・・・?・・・
(でもないですけど,文献から入ろうとして古文書勉強中)
でも,鎌倉時代の福井荘の農民が住んでいた,生活していた場所なのです。
(福井荘は,網干近辺,ほぼ現在の魚吹八幡神社の祭りの範囲,神護寺領など)
(この発掘現場のすぐ横には,現代の家が建って,現代の人が生活しています。)

日陰で,今聞いたことをメモしていると,
中から私ぐらいかちょっと若いぐらいの女に人が出てきました。
私がぺこっと頭を下げると,
「好きなんですか?」と聞かれたので,
「好きじゃなかったら,女一人でここに来ませんよ。」と答えると,
その女の方,
出てきた土器を洗って乾かす仕事をしている方でした。
土器を復元する人は別の方だそうです。
「暑いのにたいへんですね。」と私が言うと,
「私は部屋の中ですから。」
プレハブ小屋の横には,黄色い入れ物がたくさん積み上げられています。
中には土器の破片が入っているのでしょう。
「ここは,埋めてしまうんですよね。」と私が言うと,
「そうですね。」
私「残念ですが,道路をつくるんですよね。もったいないですね。」
女の人「ここに,ずっと昔の人も住んでいたと思うと不思議な気がします。」
(蒸し器が出てきたときは,感動したようです。)
(その方,発掘現場があると「来てくれないか?」とお呼びがかかるパートの職員さんだそうです。
 私以上に,好きなんでしょうね。)

でも,前回に書いたように,私自身も時々不便をしています。
「ここが終わったら,すぐ近くをまた発掘します。
 ぜひそちらも見に来てくださいね。」と教えてくださいました。

現場では,実際に暑い中,掘っていたと思われる作業員の方が,足場等の片づけを始めました。
私は一礼して,現場を去りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鍛冶田遺跡(かじたいせき):その1

2016-09-09 15:07:23 | 日記 地域 遺跡
JR網干駅と山電網干駅を結ぶ県道は,この辺りでは結構交通量が多いです。
JR網干駅のすぐ西の踏切のあたりは特に混雑します。
JR網干駅の踏切のすぐ西には車庫もあり,電車の本数が多く,
この踏切を渡るのに15分ぐらい待たされたこともあります。(都会では普通かもしれませんが。)

何年か前,JRの線路のところの道路を高架にしよう,という話を聞きました。

が,進んでいないのか,道路はいつできるのかしら?と思っていました。


9月7日,たまたまNHKのニュースを見ていました。
兵庫県のニュースの時,
‟鍛冶田遺跡”のことを報道していました。
兵庫県太子町糸井にあること,
弥生時代から鎌倉時代までの住居跡が見つかっていること,などなど


我が家から車で10分!
説明会は9月11日日曜日にあるそうですが,その日は行けないので場所だけでも見てこようと思い立ち,
ネットで調べ,今日,行ってきました。

昨年も遺跡の説明会があったそうです。
(詳しくは,https://www.hyogo-ctc.or.jp/ctc/business/storage/detail.php?p=35
 兵庫県町づくり技術センターホームページ,鍛冶田遺跡を見てください。)

昨年は北半分,今回は南半分です。
JR網干駅に車を止め,歩いて5分ほど,場所はすぐわかりました。
いかにも,道路をつくっています,って感じですから。

鍛冶田遺跡の北半分はすでに埋め戻され,道路の工事を始めていました。
南半分も埋め戻されるのでしょう。

道路ができない,なぜはやくしてくれないの?
と思っていましたが,遺跡が出てきたという事情があったことを知りました。

埋め戻し,道路にしてしまうのはもったいないぐらい大きな遺跡です。
それも,縄文時代終り頃から,鎌倉時代までのものが出てきたそうですから。

道路・みんなの生活か,遺跡か?

鍛冶田遺跡については,次回。(今日は時間がなくなりました。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする