ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

朝鮮通信使と接待&食事

2016-02-29 13:30:15 | JMOOC
以前,
「朝鮮通信使ーJMOOC 田中優子「江戸文化入門」」のところで,朝鮮通信使の食事に興味が行った事を書きました。

ありました,ありました,ぴったりの本が

倉地克直『「鎖国」のなかの「異人」たち
     近世日本人は朝鮮をどうみていたか』(角川選書)

その中の
「第3章 朝鮮通信使が通る」

ここでは,岡山藩,備前牛窓での朝鮮通信使とその接待などが詳しく書かれていました。

朝鮮通信使一行の人数は,500人前後。
しかし,その通行の先導や警備の対馬藩総勢が約1500人。(50数艘)
通信使の中心は,正使・副使・従事官の三使。
朝鮮通信使は,三使がそれぞれ乗る騎船が三艘,それに卜船(ぼくせん・貨物船)が1艘ずつつく。
これとは別に,礼物(献上品)や馬や鷹を積んだ献上船がある。

たとえば,寛永13年(1636年)の使節
これは,名称を正式に通信使と改めた最初の使節
(その前3回は,いわゆる朝鮮出兵の被虜人送還の意味が強い。
 柳川事件(対馬藩による偽国書事件)後)
岡山藩主池田光政自ら出向いて直々に接待を指揮した。
一行が牛窓に着いたのは,11月6日午後8時頃。
対馬藩主宗吉成が三使に上陸して接待を受けるよう懇願するが,正使は,霍乱(急性腸カタル)を患って,とても接待を受けるような状態ではないため,副使と従事官が出席。
接待場所は,本蓮寺。

次に,正徳元年(1711年)新井白石の改変の時の接待
岡山藩では,家老を遣わして,接待をしたいと申し出,三使以下残らず上陸して,6軒の客館にはいる。
三使の接待には,宗対馬守,岡山藩家老(藩主は「寒気に痛み」牛窓までこられなかった。)
饗応は五々三の膳(昼食相当)饗応の儀式後,引き替えの料理。
上々官以下の使節一行にもそれぞれに応じた料理が提供。

享保4年(1719年)の史料は池田家文庫の中に30点近くあり,「朝鮮人御用留帳」17冊も残されている。
享保3年6月に馳走の準備をするよう指示があり,その頃から岡山藩の準備が本格化。
8月には,接待御用役員が順次任命。
閏10月には,岡山藩から対馬藩江戸留守居に対して下行(げぎょう)物についての問い合わせをする。
享保4年2月に今回の牛窓での馳走は往来とも下行のみと幕府から指示,正式の饗応は行わないことになり,計画全体の見直し。
使節一行の宿舎として準備された町屋は44軒。
この町屋提供は牛窓の住民に大きな負担。
なぜなら,通信使来朝時に宿舎として使われた後,帰帆時までの約半年,家の人が立ち入る事ができない。
ほか,岡山藩士のために,146軒の町屋準備。
こちらは1ヶ月前から藩士が待機しているので,1ヶ月以上家に帰れない。
ほか,船や水主の動員
先だって通行する献上船の馬や鷹などのえさの提供。
(ただし,先を急いだため,えさや官人への下行物は,次の室津まで運んで,室津で渡す。)
8月,藩の船奉行が鞆浦に入って宗対馬守に挨拶,一行が領海内にはいると,先導・随行。
9月牛窓へ。今回は饗応がないため,簡単な食事提供。
三使の献立
素麺  汁 からし
  吸物 みそ  鱸 冬瓜 青さんせう
 煮鳥 鶴
 酒煮麩 梅干
 切焼鯛 かけ汁 しやうか
  重引 たこ にしめいりこ むき玉子
       菓子 西瓜

でも,今回の接待の中心は,下行物の提供。
朝鮮人の食習慣の違いを考え,朝鮮人が好む物,嫌いな物をいちいち名前を挙げて細かく指示。
種類や数量はあらかじめ幕府から指示。岡山藩では,6日分用意。


あと,帰帆時の食事なども史料に残っています。


きりがないので,このくらいにして,私のまとめ&感想。

食事は上陸する時は,その地で日本食を接待。
ただし,饗応料理による接待を三使などに行う時もあれば,
簡単な食事だけの時もある。
身分に応じた食事を出す。

食材など(下行物)を藩が準備し,(幕府の指示に従う)
通信使側に渡す。
料理は船で,朝鮮から来た料理人が料理をする。

今回調べて思ったのは,
これは,参勤交代みたいに幕府が藩に課した負担ではないか。
大名統制の一環につながるのではないかという事です。
一般の人たちも,かなりの負担が強いられ大変ですが,そのなかでも,異文化との接触を楽しみ,見学したり,なかには制約があるなかでも交流したりしていたのだろうと思います。

長くなりましたが,読んでくださった方,ありがとうございました。

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「日本の城見聞録」で予習して姫路城へ

2016-02-28 16:38:26 | 日記
先週金曜日,娘と姫路城は行きました。
何日か前に,BS朝日の「日本の城見聞録」の姫路城2時間スペシャルを見て,しっかり予習してから行きました。

その前に,すぐ北にある歴博へ
姫路城の勉強をしようと思ったものの,小学生の団体さんがドカッといて,パス!
娘は十二単を着せてもらって写真は撮ってきました。

話は戻って,姫路城。

歴博から歩いていくと,姫路城の東から入られる門
・・・ただし,今は工事中だし,公開はしていません。
テレビだと,「特別に許可をいただいています。」とこの門から入っていましたが,仕方ないです。
(ただし,テレビでも言っていたように,直接天守につながっているわけではありません。)

正面にまわり,入場券を買い,菱の門へ
娘と,
「これはいの門」とか言いながら見学。
「狭間(さま)」「石落とし」「華頭窓」などにいちいち感動する親子でした。
「ねらわれています。」とセリフをまねしたり・・・ね。
(姫路城の詳しい事は,別の本などで調べてください。書き始めるときりがないので省略します。)

歴博のボランティアの大先輩Tさんから聞いていた歴代城主の家紋が見あたらないので,姫路城を案内していた方に聞くと,
歴代城主の家紋がついている瓦が並んでところは,今は見る事ができないそうです。
ただ,池田家の家紋は,門などの瓦についていました。
池田家は揚羽蝶です。
歴博職員さんが「1つだけ揚羽蝶が上下逆さまになっているところがあると聞いたけど,どこかわからない。」
と言っていたので,そのことを聞くと,
「天守に入ったところに展示している瓦の家紋だけが,上下逆さまだ。」
とおっしゃっていました。

聞いた場所が,もう出口の近くだったので,引き返す事はしませんでしたが,
今度,歴博に行った時に職員さんに報告できますね。

テレビを見て予習してから行くと,
前に行った時は「いかに見ていなかったか・・・」と反省です。
何でも予習復習が大切。
と思いながらも,全く復習になっていない内容のブログでした。
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春会式(はるえしき),お太子さん

2016-02-22 14:41:45 | 日記
今日,2月22日は聖徳太子のご命日だそうです。

ということで,今日,明日,太子町斑鳩寺では,春会式が行われます。

近くなのに,今まで行った事がなかったのですが,以前斑鳩寺で
「2月に,普段見る事ができないご本尊も見ることができる。」
ときいていたので,
「よしっ!」
と行きました。近くまで行くと,お店がいっぱい出ていておいしそう。

そういえば,先日の新聞折り込み広告には,テレビもあたる・・・かもしれない大福引き会もあると載っていました。

順路に従って,まず,聖徳殿

斑鳩寺は,戦国時代に戦乱で焼け,(1541年),その後,再建。(1551年)
聖徳殿は,再建の時以来(ただし,1665年再修造)

中はひんやり寒かったです。
私が,じっと眺めていると,入り口の受付の方が,
「天井の絵を見て。花の絵があるでしょ。でも,あそこ(中央あたり)だけ,鳳凰の絵です。」
と教えてくださいました。
そこに,副住職(?)の方が来られて,春会式は多分戦後始まったこと,(もしかしたら戦前もあったかもしれないが,史料が残っていないこと)などを教えてくださいました。
そして,こういう行事はお寺よりも周りの支えてくださる人の力が大きいこと,続けるという事はたいへんなこともお話ししてくださいました。

木魚や小さな太鼓,鼓らしきもの,それに,楽太鼓もありました。

「今日午後2時から,お稚児さんと楽器とたくさんの僧侶の読経がある。」
と聞きましたが,2時に行く事ができないので残念です。
(加古川にある鶴林寺の僧侶も来られるそうです。)
どんな合奏(?)になるのでしょう!?!
来年のお楽しみにとっておきます。


次に講堂。
普段は見る事のできない
向かって左から
如意輪観音,釈迦如来,薬師如来は
その大きさに圧倒されました。

そして,外へ出て講堂の横,
寛政2年と書いている(1790年)大きな涅槃図

次の宝物館


書く時間がないので,またの機会に書きます。

「聖徳皇太子 御供物 播州 斑鳩寺」
をいただきました。
紅白のおもちが入っていました。(小さな切り餅です。)

戦乱で焼けて再建されてからは天台宗のお寺になったそうですが,
聖徳太子・・・なんですね。

「江戸時代から続いている,と言うような事はないですよ。」
と副住職らしき方がおっしゃっていましたが,
私は勝手に江戸時代・・・を想像してしまいました。

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厄年&うそかえ

2016-02-20 10:11:10 | 日記
先日,源頼朝が厄年に仏像を奉納したことを書きました。

歴博で空いた時間にちょっと調べました。

『国史大事典14』 吉川弘文館

厄年:災いや障りのあると死として意味慎むべき一定の年齢のこと。
陰陽道に基づく思考。
厄年は好ましくない年と見られ,神仏の加護を得るため種々の手だてがとられた。
古くは『源氏物語』で紫の上が37歳の厄年にて身を慎んだことが述べられ,
『小右記』寛仁3年(1019年)8月5日条にも厄日を慎むべきことが述べられている。

昨日は忙しかったので,調べてのはここまでです。

ちなみに職員さんも厄年で,神社にお払いに行かれたとの事。

その職員さんが,
「天満宮の鷽(うそ)の置物どこにあるか知っている?」
なんか,イヤな事がウソになるという鷽という鳥の置物だというのです。

分からなかったのでさっきネットで調べました。
天満宮この近辺では,
大阪市の大阪天満宮1月24,25日にうそ替え神事が行われます。

そして,
大阪府藤井寺市の道明寺天満宮
初天神うそかえ祭 
1月25日 午前11時、午後3時の2回

参加方法  (30分くらい掛かります)
①午前11時(午後3時)にご参加の方は、その時間までにお参りし、列にお並びください。
②時間になりましたら、順番にお配りいたします。
③配られましたら、「替えましょう、替えましょう」と言ってどんどん交換してください。
④太鼓の合図で、袋を開封してください。
⑤「金」と書かれていたら18金の、「銀」と書かれていたら純銀の、「木」と書かれていたら三寸の木製のうそ鳥と交換になります。書かれていないものも身替り災難除けの御守です。

木製の3寸のうそ鳥うそかえ神事の様子
 道真公が無実の罪で大宰府に左遷され、任地に到着された翌年1月7日、神事をされている時に、寒中なのに無数の蜂が襲来して参拝者を悩ましました。そこに一群のうそ鳥が飛来し、蜂を食い尽くして人々を救いました。
 このことから、当宮では毎年1月25日の初天神の日に、身替災難除けとして「うそかえ祭」を行い、神職が1年がかりで奉製した手彫りの「うそ鳥」を授与しています。

とホームページに載っていました。


平安の時代も今も
人々はいろいろ悩んでいるのです。


それにしても,日本人は,神も仏も陰陽道も,
そして七福神やうそ替えも(これは神仏?)
いろいろごっちゃにして日本人らしい(?)信仰をしているのですね。
 
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工楽家住宅保存へ

2016-02-18 14:36:36 | 歴博
カテゴリー「歴博」としましたが,
歴博での話ではありません。

歴博で知った「工楽松右衛門」のことです。

昨日の朝日新聞「はりま版」
「工楽家住宅保存へ
 高砂市は,江戸時代に港湾整備などで活躍した工楽松右衛門ゆかりの工楽家住宅(同市高砂町今津町)の保存整備に乗り出す。
・・・工楽家は江戸時代後期に建てられた木造の豪商宅で,2階建て母屋はのべ約3300㎡。・・・」
周辺も整備されていくそうです。

北前船などの松右衛門帆を開発した松右衛門さんは住んでいないのでしょうが,子孫が住んでいたのかしら?

司馬遼太郎『菜の花の沖』3巻途中で挫折・・・
いいえ,“中断”です。
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