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世界の彼方此方へ行きたい

気ままな旅の様子を綴っていきます

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核戦争寸前に(2019キューバno52)

2019-07-18 | 中米

   長かったキューバ観光の最後にホテル前庭にある戦跡と言っていいんだろうか。屋上からの眺めを見せていただいた彼女に、そんな歴史を案内いただきました。

 大砲があった。 スペインの植民地キューバの独立運動を契機に1898年米・スペイン間に起こった米西戦争の時使われたそうだ。アメリカが勝利した戦いに残されたスペインの戦跡ということか。

 この看板も訳してもらった。1962年キューバ危機の時の防空壕に展示があるとの案内。これホテルの所有物なんだろうか。ホテルの名前と紋章が入っている。 

 防空壕に入ります。この地下に次から張り付けていく写真が並んでいるのでした。 

 こんなものがあった。何だかわからないけど、昔の双眼鏡かなぁ。 

 写真がぞろぞろ並んでる。いわゆるキューバ危機の時のものだ。説明には英語とスペイン語が併記されている。残念ながら説明はしていただけませんでした。カストロとフルシチョフが握手している写真もある。 

 これが切り取ったその部分だ。なんて書いてあるのか知りたい。そこでこの写真をメールして問うた。「なんて書いてあるの」と。「1960年9月20日ふたりの初会談は、第15回国連総会の時だった」だって。話したことなんか何も書いてないとの返事が来た。この時から両国は仲良しになったのかもしれません。ちょっと調べてみた。そしたら出てきた。この国連総会でのカストロの初演説は何と4時間半に及んだという。当時演説の持ち時間の決まりはなかったのでしょうか。「これではかなわん」として以後持ち時間っての決められたかも。 

 キューバに核ミサイル基地建設が始まったとされるのが1962年(昭和37)だという。 その時ケネディが海上封鎖した。なんてことがかすかに記憶の中にある。

 

 

 防空壕はこんな感じで、結構長い。 

 

 グリーン色のキューバの周りには航空母艦が配備され飛び立つ飛行機の絵が描かれている。右下にはカストロをほめたたえる女性からの文言が書かれている。

 ここには「当時、革命軍は54歩兵団あって約40万人が動員された」と書いてあるそうだ。これらの写真はキューバが撮影したものでしょうが、ソ連から支援されただろう戦闘機などが写っている。 

 左右にカストロとケネディの写真。そしてここには「原子力大殺戮の瀬戸際で生きた13日間」として、米国とソ連の最大の衝突は、ヨーロッパではなくカリブ海で起こった。それは1962年10月キューバ危機で勃発。世界で唯一の核戦争の危機だったのです。・・・ってなことが書いてあるそうだ。

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