真実一路くんのひとり言

だれがやっても同じやとあきらめず、一歩ずつ
長いものには巻かれず、真実を大切にして。

感動!の「おくりびと」

2009-03-01 | Weblog



昨日(2月28日)は、映画「おくりびと」を見てきました。さすがに米アカデミー賞受賞直後とあって映画会場はたちまちのうちに満席でした。昼からの2回上映の予定を急きょ、夕方からも上映するほどです。

さておき、映画は納棺師を主人公にしたもの、といえば、ふと水上勉作品「釈迦内棺唄」を想起させました。「釈迦内棺唄」は穏亡です。意図するものは違いますが地下茎でつながっているのです。そう思いました。

人の「いのち」は「平等」です。「釈迦内棺唄」は穏亡の娘ふじ子に語らせています。「吾のお父は、どこさ出してもはじかしぐねお父だった。人はみな平等だ。したども、生いだその場所と職業で差別されて生きてゆぐ、したども、死んでしまえば、弁護士さんも、知事さんも、百姓も木こりも同じだ。灰になるぁんだ。みな仏さんになるぁんだ。天皇さまも吾ど同じだべちゅうなが、お父の口ぐせであった」と。

これは、水上氏自身の体験から言わせた台詞です。水上氏は「…死人をとりあつかって、つまり、手をよごして、死人をうけとり、遺族さえが、気持ちわるがってさわりもしない遺体を、血のつながりもない人間が手あつくうけとって、ていねいに始末してくれる、この穏坊さんの方に無心のなりわいがあって…私の父などは、死ねば人間は土になり、生きていた時の差別はなくなって、みんな椿の木を育てて花になるのだ」と語っています。

「無心のなりわいがあって…、生きていた時の差別はなくなって」、ここにこそ「おくりびと」を見る人の共感と感動を与えるものになっているのではないでしょうか。

一粒で二度おいしいドラマツルギーでもありました。同級生の母親である銭湯の女主人の死。そしてラストの父親の納棺のシーン。捨てていった父親であっても「いのち」に変わりはありません。幼少のころ父親に手渡した「いしぶみ」は父の手にしっかり握りしめられていました。この「いのち(いしぶみ)」はやがて生まれくる「いのち」につながっていくのです。すべての「いのち」の尊厳につながっているのです。

それにしても、主人公役をつとめて本木雅弘さんの演技は熱演でした。あたためてきたものがほとばしり、それでいてしっかりと演じられていました。そして忘れてはならないのが穏坊役の笹野高史さん、いつ見ても味があるのです。

こらえきれず、あたたかいものがこぼれ落ちたものでした。

真実一路くんより

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