S家の別宅

夫婦ふたりきりになりました。ふたりの生活をこれから楽しみたいなと思います。

乾いた暗い穴があいているような・・・・

2008-06-11 16:47:08 | Weblog
新聞で連載されている辺見庸さんの「水の透視図法」というシリーズ。

辺見さんの世界を視る視線はすごく好きだ。「もの食う人々」を読んでからわたしは辺見さんの文章、小説などを読んできた。

今日、書かれていたのは「プレカリアートの憂鬱」と題して、自由で民主的な奴隷制という副題がある。
プレカリアートとは、英語のプレキャリアス(不安定な)とプロレタリアートを組み合わせた欧州の若者の造語で、不安定で不公平な雇用状態にあえぐ非正規労働者、フリーター、失業者群などをさす。

辺見さんが大学で教えた教え子との再会で彼が「ぼくらいったんプレカリアートとしてアンダークラスにくみこまれたら、袋小路からぬけだすのは不可能に近い」と言った言葉。
アンダークラスとは、雇用側によって極端に安くやとわれては、何の保障もなく使い捨てられる新たな貧困階級・・・・というニュアンスとあった。

この彼が辺見さんに問う。「このような時代を経験したことがありますか?」と。
辺見さんは心の中で言う。「価値観の底がぬけているのに、そうではないようにみなが見事に演じている世の中ははじめてだ」と。
乾いた暗い穴がぽっかりあいているような世の中だ。

彼はまた問う。
「今、いったい何に怒ればいいんですか?」と。

わたしは読みながら日曜日に起きた秋葉原の無差別殺傷事件を思った。
時代の袋小路に入り込んでしまい、人と話をしないでできる仕事を毎日して、辺見さんがいう「自由で民主的な奴隷制」のようなものを感じ、人間関係の希薄さを掲示板に書き込むことで埋め、そして彼はいったい何に怒っていいのかもわからなかっただろうと思う。

「勝ち組はみんな死んでしまえ」と言った。けれど、彼が本当にどうしようもなく逃げられなかったのは、現代の自由で民主的でありながら、まるで奴隷制度のような格差を感じなければならない理不尽な社会そのものへの怒り、失望、であり、それが屈折して、勝ち組という幻のようなものへの怒りにすりかわっていった。

けれどこの世の中に本当に勝ち組なるものが存在するのか?
豪華なレストランで食事をし、ブランドで身を固め、絵に描いたような恋愛をすることが、本当に人間として「勝ち」なのか?

人は生まれて死ぬ。簡単にいえば息子が言ったようにそれだけなのだ。

そのなかで権力や、財力・・・・そういうあってないような幻のようなものに固執するのではなく、きちんとものを見ることができる、という人間が一番しあわせに生きる人間なのではないかと思う。
でもそういう人間はたぶん権力や地位や財力には無縁であるかもしれない。


記事の中で辺見さんの教え子が言った「自殺多いでしょ。あれって変種のテロじゃないですかね」