日本語には二種の感情が付いている。
それは音韻という衝動感情と感情と名のつけられた前感情である。
二種の感情は、前感情として一群化している。
*。
西欧から移入した理性語にも感情がつく。
日本の判決はすべて屁理屈と言われる。
判決だけでなく、日本の世間自体が屁理屈だ。
*。
どういうことか。
判決だろうと、言葉の展開は、
そのベースに気持ちがある。
気持ちが良くないと、それだけで排除される。
*。
感情言語が、屁理屈の正体だった。
*。
頭に来ると、
つまり不快になると、
それ全体を否定排除する。
日常は、人情世間体で組織化されている。
*。
人情世間体は、行動にも感情が付いていることだ。
言葉と意味と気持ち、
日本人の会話や文章は、この三要素からなる。
非常心の時はこれらが分離している。
*。
衝動レベルが上がると、
これらはフリーズして、激情が炸裂する。
言葉と感情がショートする。
するといい気持ちでないものは、異物として排除される。
*。
判決が屁理屈だと言う事は、
バカ死ねと言っていることだ。
判決する側も、される側も、バカ死ねと言っているのだ。
*。
屁理屈だという側も屁理屈となる構造がある。
日本全体がは理屈なのだ。
「我こそ生後」と非難する方も、
「我こそ正義」なのだ。
*。
即ち日本人には、客観的普遍妥当性がない。
即ち、財布がない→お前が取った→金を返せ。
双方がこう言っている。
結局権力の強い方が押し切る。
*。
客観的普遍妥当性、そんなものはない。
これがお上の立場だ。
そしてこれを維持できる。
*。
お上とは、屁理屈を通せる立場だ。
これを批判する人は、お上にはならない。
*。
かくしてこの国は、
所得・消費・欲望を丸出しで生きるのだ。
このベースに、いい気持ちがある。
*。
正しさよりも、いい気持ち原理主義だ。
いい気持ちの時は、優しい人。
いい気持ちが犯されると、残酷になる。
*。
本人は、残酷と思わず、毅然とした態度と思うばかりだ。
相手にはただの残酷だ。
*。
屁理屈のない世界はない。
日本人の常識だろう。
日本人は、客観的普遍妥当性こそ妄想と思う。
*。
人や自然は機械である。
この間違った世界に、科学と産業が成立した。
*。
人は間違いにしか生きられない。
こう仮定して見ると、
大体正しいことなんてあるかとなる。
間違いの中に、如何にいいものを作るか。
*。
間違いを生きる、
これが人の立場ではないかと推察される。
*。
間違いの中に作るまともなこと。
正しいと言うことはこの程度ではないか。
*。
玉蔓の、ウソの中にこそ真実がある。
事実を生きることこそ、ウソを生きることだ。
二つの立場の非可逆性、
ここに現実がある。
*。
存在するもの、すべて幻である。
幻に中に作る、真実。
*。
人は現世に幻を作り、
それを現世に戻す。
現世に戻せない幻が、虚偽と偽善だ。
*。
Gёdelの不完全性定理とナッシュ均衡論の到達点だ。
*。
間違いと言うことは、間違いだ。
そういうことも間違いだ。
それが人の立場ではないか。
*。
これがGёdelの不完全性定理であろう。
これを知れば、
人のやることは、間違いの中に、魂を作ることだ。
これがナッシュの均衡理論だ。
*。
いい気持ちや癒し、
これこそ我こそ正義の屁理屈だ。
自分にバカ死ねと言っている事だ。
*。
これは心のない世界だ。
*。
自分が自分に、バカ死ね。
これが一億玉砕への万歳突撃だろう。
これを理解するには、
客観的普遍妥当性が必要だ。
それは音韻という衝動感情と感情と名のつけられた前感情である。
二種の感情は、前感情として一群化している。
*。
西欧から移入した理性語にも感情がつく。
日本の判決はすべて屁理屈と言われる。
判決だけでなく、日本の世間自体が屁理屈だ。
*。
どういうことか。
判決だろうと、言葉の展開は、
そのベースに気持ちがある。
気持ちが良くないと、それだけで排除される。
*。
感情言語が、屁理屈の正体だった。
*。
頭に来ると、
つまり不快になると、
それ全体を否定排除する。
日常は、人情世間体で組織化されている。
*。
人情世間体は、行動にも感情が付いていることだ。
言葉と意味と気持ち、
日本人の会話や文章は、この三要素からなる。
非常心の時はこれらが分離している。
*。
衝動レベルが上がると、
これらはフリーズして、激情が炸裂する。
言葉と感情がショートする。
するといい気持ちでないものは、異物として排除される。
*。
判決が屁理屈だと言う事は、
バカ死ねと言っていることだ。
判決する側も、される側も、バカ死ねと言っているのだ。
*。
屁理屈だという側も屁理屈となる構造がある。
日本全体がは理屈なのだ。
「我こそ生後」と非難する方も、
「我こそ正義」なのだ。
*。
即ち日本人には、客観的普遍妥当性がない。
即ち、財布がない→お前が取った→金を返せ。
双方がこう言っている。
結局権力の強い方が押し切る。
*。
客観的普遍妥当性、そんなものはない。
これがお上の立場だ。
そしてこれを維持できる。
*。
お上とは、屁理屈を通せる立場だ。
これを批判する人は、お上にはならない。
*。
かくしてこの国は、
所得・消費・欲望を丸出しで生きるのだ。
このベースに、いい気持ちがある。
*。
正しさよりも、いい気持ち原理主義だ。
いい気持ちの時は、優しい人。
いい気持ちが犯されると、残酷になる。
*。
本人は、残酷と思わず、毅然とした態度と思うばかりだ。
相手にはただの残酷だ。
*。
屁理屈のない世界はない。
日本人の常識だろう。
日本人は、客観的普遍妥当性こそ妄想と思う。
*。
人や自然は機械である。
この間違った世界に、科学と産業が成立した。
*。
人は間違いにしか生きられない。
こう仮定して見ると、
大体正しいことなんてあるかとなる。
間違いの中に、如何にいいものを作るか。
*。
間違いを生きる、
これが人の立場ではないかと推察される。
*。
間違いの中に作るまともなこと。
正しいと言うことはこの程度ではないか。
*。
玉蔓の、ウソの中にこそ真実がある。
事実を生きることこそ、ウソを生きることだ。
二つの立場の非可逆性、
ここに現実がある。
*。
存在するもの、すべて幻である。
幻に中に作る、真実。
*。
人は現世に幻を作り、
それを現世に戻す。
現世に戻せない幻が、虚偽と偽善だ。
*。
Gёdelの不完全性定理とナッシュ均衡論の到達点だ。
*。
間違いと言うことは、間違いだ。
そういうことも間違いだ。
それが人の立場ではないか。
*。
これがGёdelの不完全性定理であろう。
これを知れば、
人のやることは、間違いの中に、魂を作ることだ。
これがナッシュの均衡理論だ。
*。
いい気持ちや癒し、
これこそ我こそ正義の屁理屈だ。
自分にバカ死ねと言っている事だ。
*。
これは心のない世界だ。
*。
自分が自分に、バカ死ね。
これが一億玉砕への万歳突撃だろう。
これを理解するには、
客観的普遍妥当性が必要だ。