超人少年伝説

源氏物語千年 紫式部が突然現れ 紫式部氏思想を書くことになった

事実としての法 真実としての法

2007-09-09 08:39:38 | Weblog
司法という部分に、国家、企業、教育など多くのものを置換できる。

事実としての法は、ただの言葉である。
真実としての法は、人の世界である。

木を見て森を見ない、木が事実、森が真実。

日本では人や社会が法に合わせさせられる。
国家あっての国民だからである。

国家が先にあり、国民が後で作られた。
これが民事不介入の原則だ。
もっともお上体制では、人々はただの道具だ。
法を自ら生んだのでなく、輸入したことも原因だ。

法以前にお上体制があり、
即ち裁量権と心証が、法を支配する。

憲法は日本では原理ではなく、ただの便法だ。
嘘も方便、憲法も方便。

西欧は憲法で、国家と国民を接着した。
日本は法が、国家が国民を支配する道具になった。

日本のお上体制は、真実なき事実の世界である。
つまり心無き世界である。

心はお上体制でなく、日本文化にあり、
多くの人々は、心を便利に使える。
国家にとって天皇も便利が道具でしかない。

お上日本は事実だけの世界で、心はクールジャパンにある。

日本国家は心身二元論の世界だ。
お上国家は体、クールジャパンが心。
今のところこれらは別次元。

国家空間、文化空間、多くの人の社会空間。
国家が社会空間を支配、
精神は国家に働かない。

社会空間の人間性も国家に押し潰されたいる。
日本の市民革命は、人間性による国家力の解体である。

日本の法は、お上の裁量権と心証に支配されている。
最高裁の二票差・五表差合憲、

法はあって法はない。
お上に感情のままに日本は動かされる。
それを法でやれるわけだ。

日本の法はあってない。
法は言葉としての事実、そこに心はない。
即ち畜生&鬼畜国家&司法。

事実としての国家、即ち心のない畜生&鬼畜国家。

これに日本の根本問題、国家に対応不能。
国民が人間力で国家力を捻り返して、
畜生&鬼畜を脱出するしかない。

これが日本のイニシエーション。


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