日本の伝統芸術と芸能
能面と能楽・佛像と佛像彫刻
<その011>
人形特集-006
市松人形
やっと、第六回で市松人形に至ることが出来ました。長い事掛かりました。それでは先ず市松人形の「市松」という呼称の由来からお話しましょう。
上の文様は<市松模様>と古来から呼ばれているものです。江戸時代の歌舞伎役者、初代佐野川市松が舞台「心中万年草」で粂之助に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴を履いたことから人気を博して、着物の柄模様として流行したことから「市松模様」と呼ばれるようになった。その為江戸時代以前から存在するものは石畳模様と呼ばれます。
寛政6年5月の都座興行「花菖蒲文禄曾我」で祇園町の白人おなよを演じる三世佐野川市松
急に突然、東洲斎写楽の浮世絵が出てきましたので、驚いた方もおありでしょう。市松とはまた、江戸時代の中期の人気歌舞伎俳優・佐野川市松の似顔人形が発売されて、女性たちの評判を呼んだことに由来するものです。つまり、佐野川市松に由来する「模様」と「似顔人形」にその名の源泉があります。
当初の「市松人形」は美しい若衆の姿だったのです。以降愛玩用の人形はすべて市松人形と呼称されるようになったようです。
三世佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富衛門の蟹坂藤馬
その内に本来の若衆の似顔人形はいつしか消えてしまいましたが、その名前だけは残り、関西では言葉が縮まって「いちまさん」、「いちまん」、「いちま」の愛称が残って、可愛らしい稚児の人形をこのように呼ぶようになりました。
その後は先般も書きましたが、子女の愛玩用の人形、明治30年代以降は外国からの来賓に対して宮家より特別製の市松人形を贈るなど、また、美術品として特定の好者の間で市松人形が持て囃される様になって行きました。
そして、昭和2年(1927年)の<答礼人形>で頂点を迎えることになるのです。先回もお話しましたように、玩具としての人形が芸術的価値を持った、美術品としてのレベルに達したのです。
答礼人形
1927年に当時の日米の政治状況の悪化(当時日米は移民問題で緊張していた)を危惧して、アメリカから日本に対して12,700体の「*青い目の人形」が贈られました。この時の当事者代表は、アメリカが米人宣教師ギューリック博士、日本側は渋沢栄一。これに対して日本側からもアメリカのクリスマスに間に合うようにと、58体の市松人形をコンクール形式で製作して贈りました。
* 青い目の人形12,700体の内、327体の国内に現存が確認されております。また、アメリカには答礼人形58体の内44体が確認されております。
この現実の数字をどのように考えるかということは、なかなか難しい問題です。その民族の持っているものの考え方、国民性、美術品に対する感覚と評価を含む考え方、その当時の政治状況などいろいろ有ると思います。
穿った見方というかもしれませんが、答礼人形の美術品としての価値は青い目の人形を遥かに凌駕していたという事かもしれません。西洋人の美術品に対する審美眼は当時の日本の一般的国民より遥かに上であり、かつ冷静で大人の感覚であったということでしょうか。
下世話な言い方をすると、青い目の人形は現在の金銭感覚で¥3,000円、答礼人形は¥2~3,000,000円位だそうです。・・・・う~ん、なるほどね。答えは簡単のかな???
青い目の人形・アニー(吉徳資料館蔵)
答礼人形の身長は81cm、下着から襦袢、振袖、小物に至るまで付けて贈呈しました。まさに国際親善をはたす「使節」の役割を果たすことになりました。この時のコンクール第一に輝いたのが、後の重要無形文化財保持者・二代目平田 郷陽でした。
二代目平田 郷陽・答礼人形第一位
櫻子
では、これからしばらくの間<答礼人形>のご紹介をしていきたいと思います。
答礼人形-001
Miss 徳島
答礼人形「ミス徳島」
(アメリカ合衆国ワシントン州
ノースウェスト芸術文化博物館所蔵)
アリスちゃん
アメリカ合衆国ペンシルバニア州ウイルキンスパーク市から徳島県に贈られた青い目の人形<アリスちゃん>の里帰りに因んで開かれた、徳島県から贈られた答礼人形・Miss Tokushima の徳島県立博物館での合同展示の際の写真です。
では、次回はMiss 長崎たま子 をご紹介します。
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