先日探し物をしていたら、本命は見つからずにこんな本が出て来た・・退屈していたので幕末の藩主なる本を開いて読んでみた。
毎年知人と北海道を訪れているのだが、気が早いと言うか、年を取って気が短くなったのか早々と行程表が届いた。(日程は6月下旬から7月の上旬で約半月とちょっと長い)
頭の中が北海道になっていたので、前に竹さんと松前の城を訪ねた「松前藩」のページを開いた。
そして松前藩はどうして本州では無くて北海道へ行ったのだろう・・アイヌの人達とどの様な交流が有ったのだろう?などと、どんどん興味が脇にそれて行ってしまった。
松前藩とアイヌの人々の交流なんてアメリカの開拓時代の騎兵隊とインデアンと同じ位に惨い状態で有った様だ。
騎兵隊の駐屯する砦・・それより遥か昔に昔本州にも「柵」と呼ばれる似たような砦が有ったと言う。
巻の柿団地には古墳時代の本州最北の「前方後円墳」が有って、新潟市には「渟足柵」が有ったと言われている・・だったら当時その柵より北方にはどの様な世界が有ったのだろう?
当時の越後(新潟)は北の辺境(国境)とされていたらしい・・その北方は外国で異民族の住む地域とされていたと言う。
新潟県の歴史を開いてみると「蝦夷」と書いて有る・・同じ「蝦夷」では有るが読み方は「エミシ」と「エゾ」の二通り有って、どうも読み方の違いだけでは無く、本質的に違う様だ。
東北の「エミシ」と北海道(蝦夷)の「アイヌ」は同じだったのか、違う人々だったのかネットで検索したら次々と資料が見つかった。
結果違うと言う説が大勢だが、真相はこればっかしはタイムマシンで訪ねるしかない。
*阿部首相が岩手を訪れて”阿部家のルーツ”がこの地方に有ると言ったとか・・「奥州阿部氏」を検索すると頭がくらくらする位ややこしい話が出て来ます。
奥州平泉の藤原氏にもつながるややこしい話が出て来るのです・・「先妻の子」「後妻の連れ子」「後妻の子」の争いなどと、書いている方も混乱しているので、自分で調べるのが一番だ。
結局後妻(阿部氏の一族で清衡の母)の連れ子が勝利して初代の藤原清衡となったとか・・この清衡の母の兄弟(宗任)が阿部家のルーツと言う事らしい。
「前九年の役、後三年の役、阿部貞任、阿部宗任」
*「わが国の梅の花とは見つれとも 大宮人は如何か言ふらむ」・・平家物語 安倍宗任(阿部総理のルーツは京の貴族も驚く文化人だったとか)
ややこしい話なので間違っていたらごめんなさいだ・・学生時代でもこんなに勉強することは無かった!
もう直ぐ畑仕事が始まる・・頭は使わず体を使う、これが楽しみなんだね!