このタイトル、何ヶ月も前から予告していたので変えませんでしたが、やっぱり違ってますね。「ノラだからこそ」じゃなくて「ノラだって」とすべきでした。
ニャンコは分け隔てなくみなかわいい。人間と同じ社会で生活し、心を通わせることができて、時には甘え時には対等に、我々にはとても身近な存在です。それは家猫であってもノラであっても同じ。ただ、室内に拘束され保護者の選択肢がない家猫と違って、自由に場所や相手を選べるノラにはより"対等"の目線が求められます。
「猫と対等だなんて」と思った人は、以前に『ニャン好き恋愛論』で書いたAタイプの保護者かもしれない。猫種にこだわり見栄えにこだわり、滅茶苦茶にかわいがる好意の押し売り。ノラはもちろん他所の猫には興味もない。要するに猫が好きなわけじゃないのです。でもそれは、テレビでやってる多くの動物番組が猫種紹介に明け暮れ、コレクションとしてのペット飼いを煽った結果だろう。
でも自分は、このAタイプの保護者を否定しているわけではありません。保護者は変わる可能性がある。どんな動機で保護者に選ばれたとしても、いつしか家族同様かけがえのない存在になっている。猫にはそんな不思議な力があるからです。自分も、初めて家族が猫を飼うと言い出したときは反対した一人でした。
めずらしく膝の上で寝るニャー
家庭内オジンストーカー、でも付き合いはあくまでも"対等"です
そもそも、ノラと家猫の違いって何?
本シリーズで調べてきたように、現在日本で飼われている猫の半数以上は元ノラです。逆にノラと言ってもかなりの比率が元飼い猫で、脱走したり捨てられた猫。 自分はかつて、『人生いろいろノラにもいろいろ』というタイトルでノラの分類を試みたことがあります。家猫経験の有無や時期、保護されているのかどうか、どの程度の保護か、過去経験はどうかなどによって、ノラといっても人間への接し方が変わるわけです。もちろん個性にもよるけど、慨して同じ経験であれば同じような行動をとる。我々はノラを見るとこの猫はどうのあの猫はどうのと言うけど、猫から見れば単に経験と学習の結果で人間との距離を決めているだけだ。
しかし結局、その記事は没にしました。分類することに意味のないことがわかったからです。何故なら猫は変わる。同じ猫が、環境が変わればどんどん変わる。しかも可逆的に。だからノラにもなるし家猫にもなる。もちろん生き続けられたらの話ですが。それが、猫に限らない動物の適応能力です。肉体的な適応性(例えば寒暖への適応など)は別にして、人間のように過去を引きずることのない動物は精神的な適応力が強いのです。
以前にニュースでやっていた、アメリカのペットショップで展示する猫を保護したノラに替えてみたところ、売れ行きは変わらなかったと。我々は、人間との距離が近い(人間に馴れている)猫をかわいいと思うのです。自分の猫はノラなんかより数倍かわいい? それは単に、自分との距離が数倍近いというだけのことです。
単にそれだけのことだけど、じゃあ人間と同じ距離にいる猫は同じように感じるのかというと、そこにはやはり個性というものがあって、冒険心が強かったり臆病だったり、いろんなのがいるわけです。でも結論として言えば、家猫とノラの違いなんてない。あるとすれば人間との距離感だけ。その距離感が、かわいいと感じるか怖いと感じるかの差になるだけです。
日向ぼっこするみう
わが家に来て半年、徐々に居場所を築きつつあります
お世話しているニャンコたちはどうだろう。
かつてわが家で暮らしていた3匹のうちハナとテツはもともとはノラでしたが、子猫のうちに家に迎えた場合は出身のいきさつなんてまったく関係ないと思います。そして、人にいじられ人にくっついて成長するから人間との距離がない。
では成猫のノラを迎えた場合は? ニャーとみうとテンちゃんの場合、その生活振りはそれぞれのカテゴリーに綴っていますが、総じて、やはりかつての3匹とは違いがある。それはひと口で言えば、人にいじられたり指図されることに慣れてない。猫の性格や経験の違いがあるにしても、今にして思えばその傾向が特に強かったのがシャッポでした。
いずれも甘えん坊で自分からはくっついて来るけど、くっつくときは膝の上でなく膝の横、一緒に寝るときも布団の中でなく布団の横。独り運動会や独りお遊びが普通で、たまに遊んであげると大喜び。かまってちゃんで無視されるとふてったりすることもないので、保護者としてはむしろ楽だ。
もうひとつニャーとみうとテンちゃんに共通しているのは、どことなく遠慮しているようでいじましい。例えば人前ではテーブル(お膳)の上の食べ物を狙わず、くれるのを待っている。これは、人間に叱られる(攻撃される)ことに対する恐怖心がトラウマとして根付いているからだと思います。ノラの時代に、多かれ少なかれそうした経験があるのだ。一方子供から育てられた猫は、叱られることに慣れている。
成猫ノラを迎えた場合、叱ったときの効果(影響)が大きいということは保護者として覚えておく必要があります。信頼関係はゆっくり気長に醸成するもので、一度壊れてしまえば修復するのは大変だ。猫を飼いたい人は猫に癒されたい人。我々は猫ののんびりと平和なツンデレ振りに癒されるのです。子猫を迎えれば、家族が一人(猫)増えたのと同じ楽しさがある。一方成猫のノラを迎え、厳しい生活に耐えてきた彼らが徐々に穏やかになって、やっと手にした平和な生活に浸る姿を見守るのもまた楽し。ニャーたちを見ているとつくづくそう思うのです。
おねだりテンちゃん
がっつくことなく静かに待つ"いい子"振り
最後に、これはまだ今後の予感なのですが、ニャーをはじめお世話しているニャンコたちがゆっくりと子供返りをしているような気がします。今は"大人の付き合い"に徹していますが、いつしか彼らも、幼少のときから育てたかつての3匹のようになるのかもしれません。
「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1 資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
2017.2.27
その2 現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
2017.5.31
その3 エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
2017.8.31
その4 一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
その6 原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
その7 形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8 地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
ニャンコは分け隔てなくみなかわいい。人間と同じ社会で生活し、心を通わせることができて、時には甘え時には対等に、我々にはとても身近な存在です。それは家猫であってもノラであっても同じ。ただ、室内に拘束され保護者の選択肢がない家猫と違って、自由に場所や相手を選べるノラにはより"対等"の目線が求められます。
「猫と対等だなんて」と思った人は、以前に『ニャン好き恋愛論』で書いたAタイプの保護者かもしれない。猫種にこだわり見栄えにこだわり、滅茶苦茶にかわいがる好意の押し売り。ノラはもちろん他所の猫には興味もない。要するに猫が好きなわけじゃないのです。でもそれは、テレビでやってる多くの動物番組が猫種紹介に明け暮れ、コレクションとしてのペット飼いを煽った結果だろう。
でも自分は、このAタイプの保護者を否定しているわけではありません。保護者は変わる可能性がある。どんな動機で保護者に選ばれたとしても、いつしか家族同様かけがえのない存在になっている。猫にはそんな不思議な力があるからです。自分も、初めて家族が猫を飼うと言い出したときは反対した一人でした。
めずらしく膝の上で寝るニャー
家庭内オジンストーカー、でも付き合いはあくまでも"対等"です
そもそも、ノラと家猫の違いって何?
本シリーズで調べてきたように、現在日本で飼われている猫の半数以上は元ノラです。逆にノラと言ってもかなりの比率が元飼い猫で、脱走したり捨てられた猫。 自分はかつて、『人生いろいろノラにもいろいろ』というタイトルでノラの分類を試みたことがあります。家猫経験の有無や時期、保護されているのかどうか、どの程度の保護か、過去経験はどうかなどによって、ノラといっても人間への接し方が変わるわけです。もちろん個性にもよるけど、慨して同じ経験であれば同じような行動をとる。我々はノラを見るとこの猫はどうのあの猫はどうのと言うけど、猫から見れば単に経験と学習の結果で人間との距離を決めているだけだ。
しかし結局、その記事は没にしました。分類することに意味のないことがわかったからです。何故なら猫は変わる。同じ猫が、環境が変わればどんどん変わる。しかも可逆的に。だからノラにもなるし家猫にもなる。もちろん生き続けられたらの話ですが。それが、猫に限らない動物の適応能力です。肉体的な適応性(例えば寒暖への適応など)は別にして、人間のように過去を引きずることのない動物は精神的な適応力が強いのです。
以前にニュースでやっていた、アメリカのペットショップで展示する猫を保護したノラに替えてみたところ、売れ行きは変わらなかったと。我々は、人間との距離が近い(人間に馴れている)猫をかわいいと思うのです。自分の猫はノラなんかより数倍かわいい? それは単に、自分との距離が数倍近いというだけのことです。
単にそれだけのことだけど、じゃあ人間と同じ距離にいる猫は同じように感じるのかというと、そこにはやはり個性というものがあって、冒険心が強かったり臆病だったり、いろんなのがいるわけです。でも結論として言えば、家猫とノラの違いなんてない。あるとすれば人間との距離感だけ。その距離感が、かわいいと感じるか怖いと感じるかの差になるだけです。
日向ぼっこするみう
わが家に来て半年、徐々に居場所を築きつつあります
お世話しているニャンコたちはどうだろう。
かつてわが家で暮らしていた3匹のうちハナとテツはもともとはノラでしたが、子猫のうちに家に迎えた場合は出身のいきさつなんてまったく関係ないと思います。そして、人にいじられ人にくっついて成長するから人間との距離がない。
では成猫のノラを迎えた場合は? ニャーとみうとテンちゃんの場合、その生活振りはそれぞれのカテゴリーに綴っていますが、総じて、やはりかつての3匹とは違いがある。それはひと口で言えば、人にいじられたり指図されることに慣れてない。猫の性格や経験の違いがあるにしても、今にして思えばその傾向が特に強かったのがシャッポでした。
いずれも甘えん坊で自分からはくっついて来るけど、くっつくときは膝の上でなく膝の横、一緒に寝るときも布団の中でなく布団の横。独り運動会や独りお遊びが普通で、たまに遊んであげると大喜び。かまってちゃんで無視されるとふてったりすることもないので、保護者としてはむしろ楽だ。
もうひとつニャーとみうとテンちゃんに共通しているのは、どことなく遠慮しているようでいじましい。例えば人前ではテーブル(お膳)の上の食べ物を狙わず、くれるのを待っている。これは、人間に叱られる(攻撃される)ことに対する恐怖心がトラウマとして根付いているからだと思います。ノラの時代に、多かれ少なかれそうした経験があるのだ。一方子供から育てられた猫は、叱られることに慣れている。
成猫ノラを迎えた場合、叱ったときの効果(影響)が大きいということは保護者として覚えておく必要があります。信頼関係はゆっくり気長に醸成するもので、一度壊れてしまえば修復するのは大変だ。猫を飼いたい人は猫に癒されたい人。我々は猫ののんびりと平和なツンデレ振りに癒されるのです。子猫を迎えれば、家族が一人(猫)増えたのと同じ楽しさがある。一方成猫のノラを迎え、厳しい生活に耐えてきた彼らが徐々に穏やかになって、やっと手にした平和な生活に浸る姿を見守るのもまた楽し。ニャーたちを見ているとつくづくそう思うのです。
おねだりテンちゃん
がっつくことなく静かに待つ"いい子"振り
最後に、これはまだ今後の予感なのですが、ニャーをはじめお世話しているニャンコたちがゆっくりと子供返りをしているような気がします。今は"大人の付き合い"に徹していますが、いつしか彼らも、幼少のときから育てたかつての3匹のようになるのかもしれません。
「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1 資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
2017.2.27
その2 現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
2017.5.31
その3 エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
2017.8.31
その4 一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
その6 原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
その7 形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8 地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)