
2017年以後、アメリカ映画には親の存在が希薄に見える。いや、物語上、確かに登場するのだが、いずれも人生に迷い、疲れ、時には子供を食い潰そうとすらする理想とは程遠い姿なのだ。そこに規範なき時代を生きる事の困難さが伺い知れる。
新海誠もそんな時代の匂いを敏感に嗅ぎ取っているように思う。新作『天気の子』にはついに大人が1人も出てこない。主人公・帆高は離島の自宅から家出し、東京にやって来るが両親についての言及はなく、不和の理由も明かされない(16歳が家出をする理由なんて、僕は想像もできない齢になってしまった)。
帆高は偶然知り合った編集者・須賀の経営する事務所兼自宅に転がり込む。結婚に失敗し、自暴自棄に生きる須賀と帆高は劇中、何度も「あの2人、そっくり」と言及される。須賀は子供のまま大人になってしまった人なのだ。彼の下で働く姪の夏美は社会にコミット=大人になるため就職活動に明け暮れるが、それ以上の理由を持たないため、この御時世にも関わらず一向に内定がもらえない。
ヒロインの陽菜に至っては親と死別している。まだ10代の彼女は小学生の弟を食べさせるため体を売ろうとしていた。2人が住むのはまるで都会に埋もれたかのような小さなアパートだ。身を寄せ合った帆高は「3人で暮らそう」と言うが、公権力がそれを許さない。寄る辺を失くした彼らがなけなしの金でラブホに泊まり、ジャンクフードでパーティを開くシーンに涙が出た。
規範なき世界に大人はいらない。世界を救う必要もない。イノセンスのためなら、世界が滅んだっていい。違和感の強い拳銃のプロット、映画的快楽に乏しいカーチェイス、幼稚な描写(おっぱいから離れられないのか?)、そして劇伴やセリフで語り過ぎるアニメ監督らしからぬストーリーテリングなど、未だ粗削りな新海誠だが、ますます“純化”しているのは間違いなさそうだ。その純真さが時に恥ずかしく、時に心を強く打つのである。
『天気の子』19・日
監督 新海誠
出演 醍醐虎汰朗、森七菜、本田翼、平泉成、倍賞千恵子、小栗旬
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