

シリーズもの興行に良く付く“最後の”という常套句だが今回は正真正銘、最後の『X-MEN』だ。製作元の20世紀FOXがディズニーに買収された事で、現行体制での製作が終了したのである。
それが映画に悪影響を与えているのが残念でならない。前述の買収劇を受けて公開スケジュールは二転三転し、監督のサイモン・キンバーグによれば公開1か月前には大量レイオフによってろくろく宣伝担当者すら存在しなかったという。結果、ディズニー(マーベル)の『アベンジャーズ エンドゲーム』が歴代興行収入記録を更新中であり、なおかつ『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が公開待機中という市場にリリースされ、シリーズ最低の興収記録という大惨敗を喫する事になってしまった。ちなみに本作よりも以前に撮了しているホラースピンオフ『ニュー・ミュータンツ』に至っては未だ公開日すら決まっていない状態である。
『アベンジャーズ エンドゲーム』のオスカー候補も囁かれる熱狂の後では批評家にも殊更、冷静に受け止められてしまった感がある。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)があれだけの数のスーパーヒーローを交通整理しているのに対し、元祖集団ヒーローもの『X-MEN』がそのほとんどを活かしきれていなければ企画力不足と言われても仕方がないだろう。陽性のMCUに対して虐げられるマイノリティの孤独がテーマなのもより陰鬱に見えてしまったかもしれない。これまでシリーズの脚本を手掛けてきたキンバーグは腰の据わったペース配分で主人公となるジーン・グレイの孤立を描いており、アクションとドラマの配分も良く、ヘッド監督ブライアン・シンガーが手掛けた前作『アポカリプス』よりも断然いい。映画としての出来云々よりもディズニーとFOXの政争、心理戦に負けてしまったと言って良いのではないだろうか(そこに市場を独占せんばかりのディズニー帝国の怖さも感じる)。
本作の価値として何より強く訴えたいのがハリウッドスターの世代交代劇である。今回のタイトルロール“ダーク・フェニックス”ことジーン・グレイを演じるのはTVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のサンサ・スターク役で知られるソフィー・ターナーだ。子役時代から出演し、去るシーズン8を持って完結したこの作品で彼女はカリスマチックな女王へと成長を遂げた。それは未曽有のパワーを手に入れ、慄きながらもそれに魅入られるジーン・グレイと重なり、そこにはスターの華もある。サイキック演技の見栄もバタバタと走り回った『キャプテン・マーベル』ブリー・ラーソンよりずっと格好が良く、そしてついには女帝ジェニファー・ローレンスを下すのである。TVドラマを見ていない人は本作での2人の扱いの違いにビックリしただろう。我らがQueen of the North、ソフィー・ターナーの華々しいブレイクスルーだけでも本作は必見である(もっともローレンスのキャリアにとって『フューチャー&パスト』以後の本シリーズは消化試合だったようにも思えるのだが)。
MCU社長ケヴィン・ファイギによればX-MENのMCU合流は数年先になるという。願わくばジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、そしてターナーには再合流してもらいたい。特にマカヴォイ、ファスベンダーは原作の設定年齢に近づくし、何よりオールスターキャストという娯楽映画の矜持を心得ているMCUである。あながち有り得ない話でもないと思うのだが、さてどうだろう?
『X-MEN ダーク・フェニックス』19・米
監督 サイモン・キンバーグ
出演 ソフィー・ターナー、ジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ニコラス・ホルト、コディ・スミット・マクフィー、タイ・シェリダン、ジェシカ・チャステイン

いつか訪れるこの瞬間のために、我々は死について想わなくてはならないのだ。思索によって培われた死生観こそが最期の時に人を支え、あり方を決めるのである。

エイリアンを通路に追い詰め、扉を開けて、宇宙船の外へ追い出す。リドリー・スコット監督は自身が手掛けた第1作のクライマックスをアップグレードして焼き直すが、さすがに新鮮味は感じない。
それよりも中盤のドス黒い、邪悪な気配は何なのだ。
新型エイリアン“ネオモーフ”の襲撃から主人公らを救ったアンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)は、かつてその惑星を支配していた宇宙人“エンジニア”の街へと彼らを導く。真っ黒に焼け焦げた無数の死体で覆われている死の街。前作『プロメテウス』の後、この星へたどり着いたデヴィッドは死の病原菌をばら撒いてエンジニアを皆殺しにし、そこで変異した生物の研究に没頭していたのだ。
古城のような研究室の禍々しい美と狂気は、モンスター映画を期待した観客を戦慄させる。ロウソクの灯で撮られたような薄暗いライティング、内臓感覚あふれるモンスターの標本、そしてエイリアンの原案者H・R・ギーガーの直筆を思わせる寄生の過程を描いたスケッチ。そこで対面するデヴィッドとウォルターという、2人のマイケル・ファスベンダーの異様。『エイリアン:コヴェナント』を覆う死臭は実弟トニーの自殺後、リドリーが発表した『悪の法則』を彷彿とさせるものがあり、ファスベンダーという符合がリドリーの抱える諦念、死生観を体現しているようにも思えた。『オデッセイ』で人生を賛歌したように見えたリドリーだったが、どこかに人知れぬ鬱を抱え込んでいるのかも知れない。
一方で『エイリアン:コヴェナント』は創造者と創造物による支配と抵抗の物語にも見える。
冒頭、ウェイランド社長(ガイ・ピアース)によって創造されたデヴィッドは、自身の誕生の理由も計り知れない人間を下等と見なす。デヴィッドはエイリアン創造というプロセスを経て自身を人間、あるいはそれ以上の存在にたらしめようと企む。
リドリーは自身の創造物である“エイリアンシリーズ”を取り戻そうとしているのではないか。
ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』以後、シリーズはグレードを下げ、ついには『エイリアンVSプレデター』によってその邪悪な神秘性は失われてしまった。『プロメテウス』から始まるこの新シリーズにおいてリドリーは長年の謎とされてきたスペースジョッキーの正体、そしてエイリアン誕生の秘密を明らかにし、暗黒の神話性をもたらして不可侵のコンテンツへと再定義しようとしているように見える。
だが一度、産み落とされた創造物は創造者の意志を超える。
ウェイランドに作られたデヴィッドが自由意志を得たように、リドリーが再定義した『エイリアン:コヴェナント』はこれまでのシリーズとは違う、別の暗黒宇宙へと漕ぎ出した(不思議なことにリドリーのもう1つの代表作『ブレードランナー』にも緩やかな弧を描きながらかすっていく)。果たしてこれは僕らが期待していたエイリアンシリーズなのだろうか?
その結論は企画されているさらなる続編に持ち越されるだろう。
デヴィッドは『エイリアン』第1作目には存在しない。彼もまた自ら生み出した創造物に超越される運命が待ち受けているからだ。

イゼベル・ユペールの辞書に“怖れ”という言葉がなければ、ポール・バーホーベンの辞書に“老成”という言葉もない。
2人が組んだ『ELLE』は見る者の先入観を打ち砕く、異能の1本だ。
冒頭、いきなりイザベル・ユペール扮するミシェルがレイプされる場面から映画は始まる。
ユペール、1953年の生まれの64歳。この後も劇中、再三再四殴られ、犯される。ところが事が終り、犯人が去ると彼女は何でもない事のように部屋を片付け、服を着替えて寿司の出前を注文する。今日は息子がディナーを食べにくる日だ。
ミシェルは何事もなかったように会社へ出勤する。彼女は人気エロゲー製作会社の社長なのだ。オタクなプログラマー達に檄を飛ばす。「そんなんじゃエクスタシーを表現できないわ」
病院へ行き、性感染症の検査を受ける。その合間にも頭によぎるのは昨日の事だ。落ちていた灰皿でレイプ犯の顔をしたたかに殴りつけてやれば良かった。ぐちゃぐちゃになるまで。
元夫、友人のアンヌ、その旦那(実はミシェルの不倫相手だ)とディナーへ行く。彼女はあっけらかんと話す「あたし、昨日レイプされたから」
信じがたい事にバーホーベンはこの映画をブラックコメディとして演出している。このレビューを読む限りでは全く想像がつかないと思うが、吹き出してしまうような場面が何度も出てくる。彼の意図を汲んだユペールはあらゆる間合いを決める完ぺきな演技で観客の度肝を抜き、魅了し、思いもよらない笑いを呼ぶ。その膨大なフィルモグラフィにおいて数々の難物監督を攻略してきた彼女だ。バーホーベンはむしろ気のおけない共犯者に過ぎないのだろう。
彼女は「あたし、嘘つくのやめたから」と言い放つ。
建前とか、気遣いとか、遠慮がなんだ。あたしは10歳で親父の大量殺人の片棒を担がされたんだ。レイプこそされなくても、唾を吐きかけられ、殴られ、侮蔑されて生きてきた。
でも、そんな事をするのは決まって関係のない奴らだ。他人の不倫スキャンダルや出自をネタに火を放ち、炎上するのを楽しむような奴らだ。
あのレイプ犯もそうだ。
映画の途中で明らかになるレイプ犯はまるで彼女を罰するかのように犯す。彼女が身を投げ出せば起たなくなるようなゲス野郎だ。社会的な地位を隠れ蓑にする奴の化けの皮をミシェルは一枚一枚はがし、ついには正義の鉄槌を下すのである。
世の中、ゲスな野郎が増え過ぎた。“彼女”にぶん殴られるべきゲスがどうにも多すぎるのである。バーホーベンは黙っちゃいない。