![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/44/3f0ad336cd91f6fadd3129ba32f5ba64.jpg)
階段は一歩踏み込むたびにぎいと軋んで、私が二階に上がる意欲をそいでいく。いくらそがれようが私は眠らなければならないのだから、結局は上がるのだけれど。夏だというのに奥にある階段はひんやりとしている、おばちゃんがきれい好きだから、埃を被っているわけではないが、何かの膜が張っているような気がする。その膜が私の足の裏にくっついて、引っぱるのだ。その時にぎいと悲鳴をあげる。それは苦痛や、不快感からではない。綿密に張り巡らされた膜を破られる快感、その悦びの悲鳴が私は怖くて、二階へ上がるのをためらってしまう。上がってしまえばなんということはない。まったく平凡な部屋がいくつかあってものが雑然と、しかしそれぞれの定位置にあり、ベランダには洗濯物が乾してあって、そこからぬるい風が入ってくる。
躊躇い、怖れ、希望、・・
一段一段にそれらの感情が込められ、踏み出すたびに「ぎい」となるのです。きっと。
登りつめたその先は、「なんということはない」日常の連続。ただ人生が「ふつうの家」と違うのは、まだその先に「階段」が続いていることです。
また、登り続けるのです。生きている限り。
のぼり続けることが生きるということなんでしょうね。
たまにはそういうことを考えておくと、
何かあったときに「そうだのぼろう」「ちょっと降りてみるか」とか、柔軟ある生き方ができるのかもしれないですね。
実際そういう音が鳴ってそれが妙に響いたので、ひとつ書いてみたのです。
どうもどうも。考えさせられます。