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毎日雑事に追われている。ふと気づいたら九〇歳ぐらいになっているかもしれない。人生は雑事の積み重ねではあるかもしれないが、たまにはほっと一息つきたいものである。自分の時間が持てるときは、植木や庭などをいじって過ごすのが好きであるが、昔一頃、海岸によくいっていたこともある。
少し前に記事に書いた、サミュエル・R・ディレーニーというSF作家の作品の中に、「流れガラス」というものが出てくる。英語でいうとdrift glassというらしい。海岸や、水辺の砂浜に落ちているガラスのかけらである。
砂浜に落ちているガラスのかけらは、砂で角を削られ、磨かれて、丸み帯びた形状になっている。もともとは清涼飲料水などの瓶であったりするので、様々な色がついたガラスである。水で濡れているときには、半透明で鮮やかな色の綺麗なものである。ところが水から出して乾くと表面が白くなってしまう。だがまた水につけると元に戻る。
その「流れガラス」をよく探して拾ったものである。たまに綺麗なやつを見つけると嬉しかった。
またサローヤンの作品に「パパ、ユーアークレイジー」というのがあり、そのストーリーの中に、父と息子が流木や漂着物を探して海岸を散歩するシーンが出てくるが、それもとても詩的で気に入っている。
そんなことを思い出しながら、「流れガラス」もだが、ほかの漂着物もいろいろ見ながらよく海岸を歩いたものだ。いろんなものが落ちている。落ちているものは、ほとんどガラクタだが、中には面白いものや美しいものもある。そういうとまるで人生のようだ。
潮を含んだ海風は肌や喉を洗うようで気持ちがいい。水平線まで続く海の青と、空の青をみながら、誰かの短歌を思い出したりもする。
白鳥はかなしからずや、空の青、海の青にも染まずただよう
若山牧水の作品であったか…。
そうやってぼーっとしながら、人生の一時を味わう。たまにはそういうこともしてみたい。春とは言え、まだ肌寒い三月の終わりである。
少し前に記事に書いた、サミュエル・R・ディレーニーというSF作家の作品の中に、「流れガラス」というものが出てくる。英語でいうとdrift glassというらしい。海岸や、水辺の砂浜に落ちているガラスのかけらである。
砂浜に落ちているガラスのかけらは、砂で角を削られ、磨かれて、丸み帯びた形状になっている。もともとは清涼飲料水などの瓶であったりするので、様々な色がついたガラスである。水で濡れているときには、半透明で鮮やかな色の綺麗なものである。ところが水から出して乾くと表面が白くなってしまう。だがまた水につけると元に戻る。
その「流れガラス」をよく探して拾ったものである。たまに綺麗なやつを見つけると嬉しかった。
またサローヤンの作品に「パパ、ユーアークレイジー」というのがあり、そのストーリーの中に、父と息子が流木や漂着物を探して海岸を散歩するシーンが出てくるが、それもとても詩的で気に入っている。
そんなことを思い出しながら、「流れガラス」もだが、ほかの漂着物もいろいろ見ながらよく海岸を歩いたものだ。いろんなものが落ちている。落ちているものは、ほとんどガラクタだが、中には面白いものや美しいものもある。そういうとまるで人生のようだ。
潮を含んだ海風は肌や喉を洗うようで気持ちがいい。水平線まで続く海の青と、空の青をみながら、誰かの短歌を思い出したりもする。
白鳥はかなしからずや、空の青、海の青にも染まずただよう
若山牧水の作品であったか…。
そうやってぼーっとしながら、人生の一時を味わう。たまにはそういうこともしてみたい。春とは言え、まだ肌寒い三月の終わりである。