拙ブログは職業は不詳で証していません。いろいろとあるかと思いますので、ご想像にお任せいたします。でも、しかし多くの方はご存じだと思います。
ステージだけ申し上げますと、一般的と同様で60歳で定年になりました。
基本的には技術職ですが、管理職になると何でもやらされます。
テキサスの夕日です。ある市の名誉市民にもなっています。
仕事では2回ほど渡米し、個人的には3回ヨーロッパ方面にも行きました。(遊びは別です)
若き日は、サンフランシスコの隣市(オークランド市)に住んでいました。
ベルリンの壁が崩壊したのが信じられなく、現地にも伺いました。
やはり年に何回も給料が上がるバブル期もあり、またバブルの崩壊後の不景気も長く続きました。やはりよく働いたな!と言う感もあります。
ここでもお話しする機会が多く、5つの大学でゲストティチャーとして講義(お話し)する機会も多くありました。
60歳から65歳までは、ある団体の役員として勤めました。
いろいろな場面で来賓として挨拶をもとめられて、突然指名されて物怖じしない性格でアドリブでお話を2時間でもできるくらいでした。(時には素敵なお姉さんとパチリもあります)
この団体の役員となり、ここでもかなり苦労した記憶が鮮明に残っています。
なんと言っても東日本大震災です。被災された大船渡や陸前高田市には7回ほど入りました。
ロータリークラブやライオンズクラブで卓話も行ったこともあります。
やはり立場的に、宿泊があると上に座らされて幾度となく。乾杯の音頭もとらさせていただく場合もありました。
65歳の3月末まで働きましたが、4月1日よりまたある企業で手伝ってくれないかと言われて、次のサードステージになりました。
働き場所は1時間半かけての通勤です。羽田飛行場が見える場所でした。
アドバイザーとしての嘱託社員ですが、役員のような立場です。
自席です。
良く会議にも参加し、意見も出さしてもらいました。
全国の支店長クラスを集めての講演会や新人研修なども多くありました。
また、国内出張も多く仕事した後の反省会と称しての一杯も楽しかったですね。
中国(青島・上海)も2度ほど伺いました。
仕事上ではアドバイザーと言っても責任の無い嘱託社員ですので、楽しい時代だったかと思います。
70歳になった時(その前から)系列会社でも手伝ってくれと言われて、今度は品川港南口勤務になりました。
ここでは72歳まで通勤しましたが、新型コロナが発生しリモートワークも多くなり、まだまだとは言われながらも72歳で完全退職することにしました。
コロナ禍では会社に出向いても、半分以下の社員しか出勤していません。私は現場主義ですので、立場的にはリモートワークで活躍する場面はありませんでした。
具体的な仕事内容はお出ししていませんが、50年間の仕事中心の生活でした。
コロナが発生する前から、昭和史に残したい事業としてある団体から講演と執筆を依頼されていましたが、講演などでは集まることが出来ませんので中止となった事案もありました。
仕事は大変でしたが、良い仲間や幅広い方々のお付き合いが私の宝物になっています。
道志には64歳の時に縁あって、通い生活を始めました。
役場の完成はいつなんでしょうかね?
Hiro