俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

匙加減

2015-02-22 09:34:18 | Weblog
 「幸福な家庭はどれも皆似ているが、不幸な家庭の不幸さはそれぞれ異なる。」(トルストイ「アンナ・カレーニナ」より)
 正常なものはワンパターンだが異常には無限の多様性がある。好天は一種類だが荒天は様々だ。健康な状態は同じようなものだが病気は様々だ。
 病気は多様だ。様々な病気があると言いたい訳ではない。同じ病気でも様々な症状や障害が現れる。風邪の症状が人様々であることはよく知られているが病気とは多様なものだ。病気が多様であるのは原因が多様だからだけではなく人が多様だからだ。多くの人にとっては重要な栄養源である小麦や卵でさえアレルギー反応を起こす人がいるのだから元々危険物である薬が薬害の原因になるのは当然のことだ。これを少しでも減らすためには一律の医療ではなく患者一人一人に対応した木目細かい医療が必要だ。
 日本の医療は大人と子供以外は殆んど区別しない。体の大きさや年齢も考慮されない。代謝機能が衰えている老人であれば化学物質が蓄積され易いのにその匙加減ができる医師は殆んどいない。厚生労働省が定めた標準治療しか行われていない。アルコールでさえ個人ごとに許容量が異なるのに、遥かに危険な医薬品の処方量を均一にしようとするのは個体差を無視した危険極まりない暴挙だ。
 千差万別である患者に画一的な治療を施すことは危険だ。食物アレルギーで亡くなる人もいるのだから薬の副作用で多くの人が亡くなっているという現実を認めて早急に改善されねばならない。医療によって救われた命よりも医療によって失われた命のほうが多いのではないだろうか。
 欧米では広く使われている薬が日本ではなかなか承認されないことをドラッグ・ラグと言い、日本はOECDから何度も改善勧告を受けているが一向に改められない。厚労省は人種の違いがあると釈明するが人種ごとの違いよりも個人差のほうが大きい。一方では人種の違いを口実にしてもう一方では個人ごとの違いを無視するのは二枚舌行政だ。一律の標準治療を医師に押し付けるのではなくあくまで基本に過ぎないことを認めて医師による匙加減を奨励すべきだろう。医療における平等とは画一的治療のことではなく患者に合った治療をすることだ。靴に足を合わせるべきではないように、薬の量は患者の体質に合わせて決められるべきだ。匙加減という言葉は元々医療用語であり料理用語ではない。匙加減のできない医師は医師ではない。

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