俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2013-07-22 09:35:53 | Weblog
 今日(22日)は土用の丑の日だ。平賀源内なら「鰻を食うべし」と言うだろうが、最早、鰻を食うべきではない。絶滅危惧種に指定されかねないほどに減った動物の大量殺戮などすべきではない。それはパンダやコアラを食べるような蛮行だ。成魚が捕れないから稚魚に手を出し、その稚魚まで捕れなくなったのだから一旦食べることを諦めて、完全養殖が可能になってから食用にすれば良かろう。それまでは食べるべきではない。
 大切な食文化を守れ、と言う人もいるがそこまでムキになる必要は無かろう。我々は松茸で似た経験をしている。松茸の収穫量が激減して価格は高騰した。しばらく前まではその馬鹿高さがニュースにもなっていたが、最近では余り騒がない。では文化は滅んだのか、そんなことはない。ちゃんと永谷園の「松茸の味お吸いもの」があるからだ。馬鹿高い本物は好事家に任せて、我々庶民は松茸風の香りで満足できる。
 鰻も庶民の手が届かないほど高くなってしまったほうが却ってスッキリするだろう。中途半端だから高嶺の花になってしまう。金に糸目を付けない人だけが食べれば良い。贅沢品と位置付けられれば値段を騒ぐことも無くなる。
 鰻の食文化を廃れさせないためには代替品の開発が急務だ。アナゴやサンマあるいは鶏などの蒲焼によって技術を継承しておけば、将来、鰻の完全養殖が可能になった時に食文化も復活する。
 鯨は全然違う。絶滅する心配が無いどころか、辛坊治郎氏の乗ったヨットを沈めるほど沢山いる。むしろ小型鯨が増え過ぎて大型鯨の餌が足りなくなっているほどだ。大食いの鯨が増え過ぎれば生態系を破壊することにもなりかねない。鯨を適度に捕獲することは海洋資源の保護にも繋がっている。鰻とは違って鯨は食べて良い。かつて乱獲していたアメリカやオーストラリアが捕鯨に反対するのはご都合主義が露骨に現れていて滑稽だ。

群盲

2013-07-22 09:04:40 | Weblog
 「群盲象を撫でる」という諺がある。一人は鼻に触って「ホースみたいだ」と言う。一人は足に触って「柱のようだ」と言う。一人は尻尾に触って「鞭ではないか」と言う。結局、誰一人として正しい全体像を把握していない。
 この寓話は盲人に対する差別だとして公に話されることは滅多に無い。しかしこれは差別ではない。実は我々自身が群盲だからだ。
 我々は正しい全体像を知ることはできない。必ず偏っている。知覚も知識も偏ったものにならざるを得ない。我々自身が群盲であるという認識から出発せねばならない。これはソクラテスの「無知の知」に匹敵する叡智だ。この寓話を盲人に対する差別だと考える人は自分が群盲であることに気付いていない。この寓話は盲人に対する差別ではなく我々に対する警鐘だ。盲人を自分よりも劣った者と思って差別している人は自分が群盲であることに気付かず、盲人に対する差別だと騒いで本来気付くべき問題を抹殺する。もしかしたら自分が群盲であることを認めたくないからこの寓話を否定するのかも知れない。
 群盲状態から離脱するためにはどうすれば良いのか、まずは反対意見を理解せねばならない。自分と違った考え方に感情的に反発するのではなく「そんな面白い見方があるのか!」と感激すべきだ。相対立する意見を止揚できるほどの高い知性を持たねばならない。
 人間は保守的なものだ。今の自分を肯定すれば心地良く、自分を否定することは不愉快だ。だからこそ自己超克が理想とされるべきだ。今と違った自分になることによって群盲から一歩離れることができる。