俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

テレフォンカード

2011-07-15 14:31:25 | Weblog
 格安チケット店では50度数のテレフォンカードが300円程度で売られている。最も安い店では270円だ。かつては切手や商品券と共に最も換金性の高い商品とされていたテレカだが、携帯電話の普及に伴って価値を大きく下げている。しかし企業がなぜこれを利用しないのか不思議だ。
 未使用のテレカで固定電話の通話料を払うことができる。手数料が52.5円だから447円以下で買って通話料に充当すれば採算が合う。
 300円で買ったテレカを1枚使うごとに147.5円の利益が出る(500-300-52.5)のだから、月間通話料が100万円の企業がテレカで支払えば295,000円の経費削減になる(1,000,000÷500×147.5)。簡単に29.5%も通話料を減らすことができる。
 企業は必死で経費削減に取り組んでいると言うが、こんな簡単な対策がされていない。もし一部の大企業がこの対策を実施すればテレカの市場価格はあっと言う間に400円程度まで跳ね上がるだろう。
 実はこの記事の内容は3ヶ月ほど前に思い付いた。公開する前にかつての勤め先の企業の取締役に提案した。もしこの提案が採用されたら記事にしないつもりだった。しかし彼は世間体を気にしてこの案を見送った。だから遠慮せずに公開することにした。
 切手にしても同じことが言える。チケット店では80円切手が70円ほどで買える。漫然と郵便局で買っている人はもう少し頭を使うべきだろう。

正比例

2011-07-15 14:15:17 | Weblog
 我々は正比例という関係に余りにも馴染み過ぎているように思える。多いほど良いとか少ないほど良いとか考え勝ちだ。
 健康に関する数値は多過ぎても少な過ぎても危険だ。BMIであれコレステロールであれ血圧であれ過多ばかりを気にするが過少も危険だ。なぜ医師は過少の危険性から目を逸らすのだろうか。
 こんなヤブ医者は世界を正比例の世界として見ているのだろう。多い(高い)ことが危険だと信じれば少ない(低い)ことの危険性が見えなくなるのだろう。困ったことだ。
 ここで孔子の中庸の徳を説くつもりはないが、過剰も過少も有害なことが多い。愛の不足だけではなく過剰な愛も溺愛となって有害だ。楽天性はすぐに無鉄砲へと繋がる。節制もケチのレベルになると見苦しい。
 中間を取ることが好ましい訳ではなく、両極を理解したうえで適切な位置を選ぶべきだろう。大胆さと慎重さを併せ持ち、時には大胆に時には慎重に行動できることが望ましい。パスカルは幾何学の精神と繊細の精神と表現したが理系の発想も文系の発想も欠かせない。一方に偏るべきではない。脳味噌まで筋肉になっている人も頭でっかちも片輪者でしかない。文武両道が理想だ。

所有

2011-07-15 13:57:01 | Weblog
 英語を学び始めた頃、haveの乱用にうんざりしたものだ。そのうち開き直って表現に困ったらhaveを使えば良いと考えるようになった。「私の足は長い」はI have long legsだ。「犬を飼っている」はI have a dogだ。「良い友達がいる」は I have good friends だ。何もかも自分の所有に結び付けるのが英米人の発想だと思った。この特徴は英語に限らなかった。他の西洋語でも同様にやたら所有を主張する。確固たる主体とその所有物という世界観があるのだろう。自分対世界という観点から自分のものとそうでないものを明確に区別するのが彼らの発想だ。
 日本語はその逆だ。所有ではなく存在として捕らえる。当然のことながら世界観もそれと連動する。自分対世界ではなく世界の中に自然に自分が存在している。言葉が先か世界観が先かは分からないが「ある」や「いる」の世界だ。それを自分が持っているかではなく存在の有無だけを表現する。haveではなくbeの世界観だ。
 I'm Sukiyaや日立のI'm possibleはわざと間違った表現をして印象を強めようとしているのだろう。
 グアムのレストランで日本人の旅行者がI am hamburgと言った時に私は驚いたがウェイトレスは平然としていた。多分そんな日本式英語に慣れているのだろう。