長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」第13回 律法の成就

2022-04-07 19:50:09 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十三回 律法の成就

マタイ五・一七‐二〇

 

 イエス様の教えは、当時の人々の間で注目を惹きました。何か新しい、権威ある教えのように思われました(マタイ七・二七、二八)。しかし、そこには誤解の余地もありました。特に、ユダヤ人が大切にしてきた律法については、多くの人にとってイエス様がかなり過激なことを言っているように聞こえたようです。「彼は律法など守らなくてもよいと言っている」という見方も生まれつつありました。しかし、決してそうではないことが、今日の箇所を読むと分かります。

聖書が告げるよい知らせは、この点で現代も誤解を受けることがあります。今回は、イエス様が律法について何と語られたのか、この箇所から確認しましょう。

 

一、律法を成就するために

 

 イエス様はガリラヤ地方の山の上で、一連の教えを語っておられました(山上の説教)。これは、群衆を背景としながらも、直接には弟子たちに対して語られたものでした。その教えのはじめのほうで、イエス様は次のように語られました。

 

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。(マタイ五・一七‐一九)

 

 イエス様は神から遣わされて地上に来られたお方でした。そのご目的は、「律法や預言者」を「成就するため」だと言われました。「律法や預言者」とは、今で言う旧約聖書のことです。続いて語っておられる内容からすると、旧約聖書の中でも特に律法に焦点を当てておられることが分かります。

 「律法を廃棄するためだろう」と思っていた人もいたようです。しかし、イエス様はその逆だと言われました。「廃棄するためではなく成就するために来た」と言われました。続いて「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません」とも言われました。こういったお言葉を見れば、イエス様がどれ程律法を大切に考えておられたかが分かります。

 

二、まされる義

 

 続いてイエス様は次のように言われました。

 

あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。(マタイ五・二〇)

 

 これは、重大なことでした。当時、律法学者やパリサイ人と呼ばれる人々は、律法が何を教えているか、一生懸命調べ、研究し、また人々に教えている人々でした。そんな彼らの義にまさる義とは、どんな義なのか、聞いていた弟子たちも途方に暮れたかもしれません。

 イエス様の続いての教えの数々は、その点を明らかにするものだったと言えるでしょう。ごく簡単に、二つの点だけ挙げてみたいと思います。

 第一に、イエス様が教えられた義は「内面からの義」でした。

 「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。」(マタイ五・二一、二二)

 確かに人を殺すことは大きな罪です。裁判に値することでしょう。しかし、「兄弟に対して怒る」ということはどうでしょうか。人間社会の裁判では、問題にならないかもしれません。しかし、神様の前で裁きの座に立つ時には、問題とされると言われます。

 実際、人を殺すという悲劇が起こるまでには、その人の心の中に色々な思いが起こっているはずです。憎しみ、怒り、そのようなものが心に沸々と湧き出し、積りに積もって悲劇的な行為に及びます。最終的な行為は裁かれなければなりませんが、そこに至るまでの心の憎しみや怒りも、裁きの対象となる、と言われます。

 姦淫の罪も同様です。「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」と言われます(マタイ五・二八)。実際に、姦淫の罪に至らずとも、心の中で情欲を抱くことは内面的な姦淫罪に当たるということです。

心の中のきよさ、内面的な義を考えることなしに、本当の義を考えることはできないと、イエス様は教えられました。

 第二には、制限のない完全な愛による義です。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ五・四三、四四)。

隣人愛の教えは、旧約聖書の中にもあり、当時のユダヤ人たちも教えていることでした(レビ一九・一八)。しかし、そこには、本来律法になかったことが付け加えられていました。「敵を憎め」というものです。隣人愛にも限界がある、ユダヤ人仲間は愛し合うべきだが、敵は憎んで、戦って、打ち負かす必要があると考えました。

しかし、イエス様はそのような制限を取り除くべきだと言われました。敵であっても愛し、自分を迫害してくるような人のためにもその祝福を祈れ、と言われました。「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言われるように(マタイ五・四八)、制限のない全き愛をもって人を愛するようにと教えられました。

 このようなイエス様の教えを見れば、イエス様が教えられた義が確かに「まされる義」であることが分かります。私たちが自分勝手に作った水準をはるかに越えた義の標準を、イエス様が示しておられると分かります。

 

三、どのようにして

 

イエス様は、律法を「成就するために来た」と言われました。しかし、それはどのようにしてなされるのでしょうか。これは、聖書全体から考えていく必要のあることです。ここでは、少し前に学んだエレミヤの預言を思い起こしてみましょう。

エレミヤは新しい契約について預言しました。イスラエルの民は、律法を与えられながら、それを守ることができず、国の滅亡、民の離散を経験していました。そういう彼らに、エレミヤは神様が新しい契約をもたらしてくださると預言しました。その内容は、「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものであり、「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」というものでした(エレミヤ三一・三三、三四)。それは、完全な罪の赦しと、内的変革の恵みでした。

聖書全体を学ぶとき、イエス様がまさにそのような恵みを私たちにもたらしてくださると分かります。ご自身の贖いの死を通して信じる者に罪のゆるしを与え、聖霊によって私たちの内側を変革してくださいます(コロサイ一・一四、ローマ八・四)。これこそまさによい知らせではないでしょうか。

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