長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」第28回 将来の救い、現在の救い

2022-09-16 13:10:47 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第二十八回 将来の救い、現在の救い

第一ペテロ一・三‐九

 

使徒ペテロもまた、生まれたばかりの教会指導者として活躍する中、二つの手紙を残しています。これらの手紙は、信仰者がやがて再び王としておいでになるイエス・キリスト(キリストの再臨と言います)を待ち望みつつ、苦難を忍び、神に喜ばれるきよい歩みを続けていくよう励ましています。

第一の手紙の冒頭、ペテロは、信仰者が神から与えられた救いの恵みがいかに大きなものであるかを書き記します。この恵みに立つとき、あらゆる苦難を乗り越え、きよい歩みを続けていくことができると、彼は感じていたのでしょう。そして、彼はここで、この救いが信仰者の将来と現在、両方に関わることを明確にしています。

 

一、生ける望み、将来の救い

 

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(Ⅰペテロ一・三、四)

 

 ここでペテロは、キリストが与えてくださる救いは、「生ける望み」を持たせるものだと書いています。信仰者は将来に対して望みを持つことができます。 望みの内容は何でしょうか。「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」と言います。ペテロはこの資産について、二つの手紙の中で色々な言葉で表現しています。「栄光の冠」(Ⅰペテロ五・四)、「イエス・キリストの永遠の御国」(第二ペテロ一・一一)、「義の宿る新しい天と新しい地」(第二ペテロ三・一三)。神様の恵みに満ちたご支配が行きわたっている永遠の御国です。

世の中、お父さんが大金持ちだと言う人もいます。そういう人であれば、将来、大きな資産を受け継ぐことになるでしょう。しかし、その財産は運用管理してかなければ、減って行ってしまうこともあります。実際、一代目の社長が苦労して築いた財産が、二代目にはあっと言う間に消え失せてしまうこともあります。しかし、イエス・キリストが備えてくださる資産はそのようなものではありません。「天に蓄えられて」いる資産、使えば失せてしまう一時的、物質な資産ではなく、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」、恒久的、永遠的な資産です。

 将来受け継ぐべき資産は、続く節では、「終わりの時に現されるように用意されている救い」と言われています。主イエス様のご再臨により、「終りの時」を迎えます。この時、信仰者が受け継ぐ天的な資産がどのようなものか、明らかにされます。これが私たちの将来に備えられた救いです。

 

二、試される信仰

 

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、賞賛と栄光と誉れをもたらします。(Ⅰペテロ一・六、七)

 

 将来の救いにあずかるために鍵となるのは信仰です。しかし、この信仰は、しばしば試されます。実際、ペテロの第一の手紙は、試練や苦しみについて繰り返し教えています(二・一八‐二一、三・一四、一七、四・一二、一三、一九、五・九)。しかし、それらの苦しみは神様の許しなしに起こるわけではありません。そのような試練は、私たちの信仰をさらに練り、きよめ、純粋なものとするために役立てられます。

 金や銀、その他の金属は、純粋なものを得るために、火で精錬されます。そのように信仰も、様々な試練によって錬られます。世の中では、様々な金属の中でも金が永遠的な価値を持つものとして尊ばれます。しかし、そのような金でさえも永遠の視点から見れば、「火で精錬されてもなお朽ちていく金」と呼ばれます。ですから、私たちの信仰は「金よりも高価」であり、そのことは、私たちの信仰が試されることを通して明らかにされます。

 私たちは信仰の歩みを続けていると、時々他の信仰者が大変な試練を受けるのを見聞きすることがあります。あまりに厳しい試練であると、「信仰者なのに、なぜ」という気持ちが起こってくることもあります。しかし、そのような厳しい所を通った信仰者の後々の姿を見ると、何となく納得させられることがあります。穏やかでありながら揺れない、どこか芯の通った信仰を感じることがしばしばあります。

 

三、現在の救い

 

 さて、ここまで見てきたところでは、キリストが与えてくださる救いは、主に将来に関わることのように思えます。しかし、この救いは私たちの現在をも新しくします。

 「生ける望み」について書く際、ペテロは同時に、「私たちを新しく生まれさせ」と書きました。それは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」、神様が私たちの内側に起こされたことでした。

 ですから、信じる私たちの内側には既に新しい何かが始まっています。このことをペテロは続く節で明らかにしています。

 

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(Ⅰペテロ一・八、九)

 

 信仰者は現在、既に「たましいの救い」を得ていると言います。その表われは輝きに満ちています。その生活には、イエス・キリストへの愛があふれています。言葉に尽くせない喜びがあると言います。

信仰は見えないものを見る力です。私たちは「イエス・キリストを見たことはない」ですが、信仰によりこのお方の愛を受け取り、このお方を愛する者とされています。このお方を「今見てはいない」ですが、救われて、ことばに尽くせない喜びを持って生きることができます。

 随分以前のことになりますが、重度の障害を持ちながら、いつお訪ねしてもニコニコとしておられる信仰者にお目にかかったことがあります。お話することも不自由そうでしたが、その言葉はいつも感謝に溢れていて、マイナス的な言葉をお聞きすることはありませんでした。将来に対して御国の希望を持っておられることはもちろんですが、「信仰の結果であるたましいの救い」を得ておられるのだと感じました。

 信仰によって、将来の救いを望み見、今置かれている状況の中で、今も生きておられるキリストを信じ見上げながら、輝きつつ、喜びつつ、歩んで参りましょう。

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