長田家の明石便り

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「聖書が告げるい知らせ」 第21回 十字架の上で起こったこと

2022-06-24 08:39:16 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十一回 十字架の上で起こったこと

マタイ二七・三二‐五四

 

 十字架刑は、当時、ローマ帝国で執行された死刑の手段の中でも、もっとも残酷なものでした。両手両足が十字架に釘づけられた上で、十字架が地面に打ち立てられると、全身の体重が釘付けられた箇所にかかってきます。激痛の中で少しずつ死に至らせられるのが十字架刑でした。しかし、福音書の記者たちは、イエス様の十字架上での様子について、いたずらにセンセーショナルな書き方をしてはいません。むしろ、事実を淡々と描くことに専念しているように見えます。

ここまで記されたところを見れば、キリストの十字架刑は、一見、多くの人々の愚かさ、罪深さの中でもたらされたものであり、不当な裁判によって無実の罪を背負わされた結果であるように見えます。しかし、十字架につけられたイエス様と、その周辺の様子を注意深く読んでいくと、イエス様の十字架の死の真の意味がはっきりと浮かび上がってきます。マタイの福音書の記述を通して、十字架の上で何が起こったのかを確認してみましょう。

 

一、ユダヤ人の王がユダヤ人に拒絶された

 

彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。(マタイ二七・三七)

 

十字架の上の方には、罪状書きが掲げられました。イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」というものでした。これは、ユダヤ人たちがローマ総督ピラトに訴えた内容を反映したもので、「ユダヤ人の王を自称していた」ということでしょう(ヨハネ一九・一二)。しかし、彼らの訴えがねたみに基づくものであることを見抜いていたピラトは、あえて「ユダヤ人の王」と書かせました。

十字架につけられたイエス様を見あげながら、祭司長、律法学者、長老たちは、「彼はイスラエルの王だ」と、皮肉を込めて言いました(マタイ二七・四二)。しかし、実際のところは、ユダヤ人の王として来られたイエス様を彼らは王として受け入れませんでした。

これまで、神に背き、祝福を失った全世界の人々をご自分に回復させるため、神様がアブラハムの子孫、イスラエルを通して救済のご計画を進めて来られたことを見てきました。ところが、当のユダヤ人たちが王であり、メシアとして来られたイエス様を拒絶したのですから、それは大変悲しいことでした。このことの結果として、イスラエルから全世界へという神様のご計画は、異邦人からイスラエルへという方向に向かって大きく転換していきます(マタイ八・一一、一二、二一・三三‐四六、二八・一九、ローマ一一・二五~二七)。

 

二、神の子がご自分を救わなかった

 

 十字架につけられたイエス様の周りで、人々は嘲りの言葉を語り続けます。通りかかった人々は言いました。「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ二七・四〇)祭司長たちが律法学者、長老たちと一緒になって語ったのは次のような言葉でした。

 

「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ二七・四二、四三)

 

 イエス様は神の子でなかったのでしょうか。いいえ、神の御子でした。イエス様は自分自身を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、できました。人々がイエス様を捕らえに来たとき、剣を抜いてそれを阻止しようとした弟子たちを押さえてイエス様は言われました。「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」(マタイ二六・五三、五四)

 神の御子イエス様は、ご自分をこの窮地から救おうと思われたら簡単にできました。しかし、神のご計画が果たされるために、あえてそうなさいませんでした。

 

三、見捨てられるはずのない方が神に見捨てられた

 

 午前九時に十字架につけられたイエス様ですが、昼の十二時になると、地上の全面が暗くなりました(マタイ二七・四五)。そして、三時ごろになったとき、イエス様は叫ばれました。

 

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ二七・四六)

 

 世界中の人々が神様から見捨てられたとしても、このお方だけは見捨てられるはずがない…それが神の御子イエス様ではなかったでしょうか。しかし、ここでイエス様は神様に向かって、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

 私たちが自分の生涯を振り返れば、しばしば神様の御旨に背いてきたことを思い起こすことができます。ですから、神様から見捨てられたとしても「どうして」と言えないものを持っています。しかし、このお方はそのようなものを一切持たない方。そのお方が、神から見捨てられた…それは誰もが「どうして」と問わなければならないことです。

その理由は、このお方の中にあったのではなく、私たちの中にあったと言えます。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント五・二一)

 

四、神殿の幕が裂けた

 

 十字架の上で、神に見捨てられるはずのない神の御子が神に見捨てられ、死なれました。その結果、何が起こったでしょうか。

 

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ二七・五〇、五一)

 

 イエス様が十字架の上で息をひきとられたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この出来事は、十字架上で何が成し遂げられたかを示しています。

 神殿には奥の方に至聖所と言われる場所があり、その前には垂れ幕が下がっていました。至聖所には、大祭司が年に一度、特別な犠牲の供え物をささげた上でしか入ることができませんでした(レビ一六章、ヘブル九・七)。その垂れ幕は、罪人がそのままでは神の前に出ることができないことを暗黙のうちに物語っていました。しかし、その垂れ幕が裂けたことは、罪人が神の前に出る道が開かれたことを意味しています(ヘブル九・一九、二〇)。

 神の御子が十字架の上で成し遂げてくださったことのゆえに、このお方をほめたたえましょう。

 

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