聖書が告げるよい知らせ
第二十九回 神との交わりへの招き
Ⅰヨハネ一・一‐一〇
(毎週一度行われていた聖書の学びは、受講者のご事情により中断しています。しかし、このシリーズはあと少しですので、ブログには最後まで掲載したいと思います。)
使徒ヨハネはイエス・キリストによる救いをしばしば「永遠のいのち」と表現しました(ヨハネ三・一六、Ⅰヨハネ五・一三)。それは来たるべき終わりの日に肉体がよみがえらされることを含んでいます(ヨハネ六・四〇)。しかし、それは単に肉体が永遠に生きることだけを意味するのではありません。その本質は、永遠の神との交わりの中で生きることにあります(ヨハネ一七・三)。世の終わりになって初めてその恵みを受け取るというのではなく、今この時、私たちはこの恵みに招かれています。「ヨハネの手紙第一」では、そのことを明確にしながら、神との交わりに生きる道を明らかにしています。
一、神との交わりのために―いのちのことば
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(Ⅰヨハネ一・一‐四)
冒頭、ヨハネは何について語っているのでしょうか。「初めからあったもの」でありながら、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」…これらは御子イエス・キリストのことです。神の御子は永遠のはじめからおられた方ですが(ヨハネ一・一)、人として私たちが生きる世界に生まれてくださいました(ヨハネ一・一四)。使徒ヨハネは他の弟子たちとともに、このお方を間近に見、このお方の声を直に聞き、触れさえしました。このお方は「いのち」を与える方であり、永遠のいのちそのものでした(ヨハネ一一・二五)。そのお方が私たちの生きる世界に来てくださり、現れてくださいました。
使徒ヨハネも、他の使徒たちも、このお方を人々に証ししました。「いのちのことばについて」とあります(Ⅰヨハネ一・一)。素直に読めば「いのちを与えることば(メッセージ」」と理解できます。しかし、神の御子が「いのち」と呼ばれますので、御子を伝えることばとも理解できます。さらに言えば、神の御子が世に現われてくださって、神を明らかに示してくださったのですから、御子は「ことば」とも呼ばれ得ます。「いのちのことば」とは、いのちでありことばでもある神の御子ご自身を示唆しているとも考えられます(ヨハネ一・一、一八)。ヨハネはそのような「いのちのことば」を人々に語りました。
ヨハネの宣教の働きには、明確な目的がありました。「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」ヨハネが「いのちのことば」なる御子イエス様を人々に証ししたのは、人々が神との交わりに入るためでした。もう少し詳しく言えば、「御父また御子イエス・キリストとの交わり」とあるように、三位一体の神様との交わりに入るためでした。あるいは、神様の中心にした信仰者の交わりの中に入るため、と言ってもよいでしょう。それは喜びに満ちた交わりであり、ヨハネはぜひとも人々がこの交わりの中に入り、その交わりの中に留まって生きてほしいと願っていました。
二、神との交わりのために―光の中を歩む
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(Ⅰヨハネ一・五―一〇)
神との交わりに生きるためにはどうしたらよいのでしょうか。ヨハネはこのところに、その道を明確に示しています。
まずよく理解しておかなければならないのは、神様がどのようなお方であるかということです。「神は光」です。「神には闇が全くない」とも言われています。聖なるお方、光の中に住んでおられる方であって、不正や不義、偽りや汚れ、隠れた闇のわざとは一切関わりを持たない方だということです。
このお方と共に生きることは、必然的に光に照らされ、光の中を歩むことを意味します。しかし、私たちの中に、あるいは私たちの歩みにおいて、暗い部分、闇のわざ、すなわち罪があったとしたらどうしたらよいのでしょうか。
ある人々は、闇のわざを行ない、闇の中を歩んでおりながら、神と交わりがあると主張しました(Ⅰヨハネ一・六)。しかし、そのような人々は「偽りを言っているのであり、真理を行っていません」とヨハネは指摘します。またある人々は、「自分には罪がない」とか、「罪を犯したことがない」と言い張りました。しかし、そのような人々は「自分自身を欺いており」、「神を偽り者とすることにな(る)」とヨハネは言いました(Ⅰヨハネ一・八、一〇)。
それではどうすればよいのでしょうか。まずは光の中にとどまることです。闇の中に逃げ込むことをせず、光の中にとどまるなら、私たちの中に隠されていた闇のわざも明らかになるでしょう。しかし、その時こそ、御子イエス様の十字架を仰ぎましょう。そして、示された罪を率直に神に告白し、言い表すことです。そうするならば、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」「その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
罪がゆるされ、きよめられる根拠は私たちの中にはありません。御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に血を流し、死んでくださったこと…そこに根拠があります。御子への信仰のうちに罪を告白するとき、必ず罪をゆるし、きよめてくださる…それは神様がご自身の真実をかけて約束してくださったことですので、条件さえ果たすなら、ゆるされ、きよめられたと確信することができます。
私自身、青年期、罪の問題で悶々としていたとき、キリストの十字架を仰いだときのことを思い起こします。「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめてくださいます。」「すべての罪」ですから、あの罪、この罪、どんな罪もと思うと、感謝があふれてなりませんでした。
神様は常に私たちをご自身との隔てのない愛の交わりへと招いてくださいます。御子イエスの血が流されています。示された罪を悔い改め、神の前に率直に言い表すなら、ゆるされ、きよめられます。信仰をもって神の御前に進みましょう。神様の愛の光の中で、喜びつつ生きてまいりましょう。
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