長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」 第18回 エルサレムへの入城

2022-06-02 20:39:56 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十八回 エルサレムへの入城

マタイ二一・一‐一一

 

 イエス・キリストの受難の一週間は、エルサレムへの入城で始まりました。この時の入城のご様子は、イエス様がどのようなメシアであられるのか、象徴的な形ではありますが、よく表しています。

 

一、ホサナ、ダビデの子に

 

 イエス様と弟子たち一行がエルサレムに入城したとき、群衆は歓声をもって迎えました。

 

すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(マタイ二一・八、九)

 

イエス様を迎える彼らの行動と言葉を見れば、彼らがイエス様をダビデの子、王なるメシアとして理解していたことが分かります。敷物を敷いて王様を迎えるように、お通りになる道に上着をしいたり、木の枝を切って敷いたりしました。「ホサナ」とはもともと「お救いください」との意味ですが、転じて神への賛美の定型句となった言葉。歓呼の意味合いもあるようで、「万歳」、「栄光あれ」といったニュアンスでしょうか。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」…ここには、イエス様が主の御名によって来られた方、ダビデの子孫として現れる王なるメシアであるという彼らの理解が表されています。

このような群衆たちの理解は決して間違っているわけではありません。むしろそれ自体は大正解でした。これまで見てきたように、旧約聖書は神が遣わされるメシアが、ダビデの子孫、王なるメシアとして現れるであろうことを、繰り返し語っています(イザヤ九・六、七、エレミヤ二三・五)。しかし、多くのユダヤ人は、そこに軍事的な力によるユダヤ民族の解放を重ね合わせて考えていました。そこに多少なりともイエス様のお姿とのずれがありました。

 

二、子ろばに乗って

 

 人々が期待していたのは力強い軍事的な王でした。しかし、イエス様はそのようにイメージされたメシアとは少し違っていました。その違いが表われていたのが、入城の際に用いられた小さな動物でした。

 

ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。(マタイ二一・七)

 

 入城に用いられたのは、子ろばでした。親ろばも一緒に連れてこられたのは、親から離れると子ろばが寂しがるからかもしれません。子ろばに乗って入城される様子は、軍事的な力を誇る王の姿とは随分かけ離れたお姿でした。

 このことは、預言者ゼカリヤが語った言葉の成就であると指摘されています。

 

このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ二一・四、五)

 

 ゼカリヤは確かに王の到来を予告しています。しかし、それは軍事的な力を誇る王の姿ではなく、「柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って」であると言います。これは、ゼカリヤ書九章九節の言葉ですが、続く節には次のように記されています。

 

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。(ゼカリヤ九・一〇)

 

 従って、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されたことには、大きな意味があったことが分かります。イエス様は軍事的な力で敵をねじ伏せる王ではなく、平和の王として来られたのだということです。

 

三、しもべの道を通って

 

 イエス様が子ろばに乗ってエルサレムへ入城されたことの意味を、より明確に知るためには、その直前、弟子たちを教えられた内容を見るとよいでしょう。

 その時、弟子たちの中には穏やかならぬ問題が生じていました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親がイエス様に一つの願いをしました。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」ここにも、やがてイエス様が王国を打ち立て、王座にお着きになるという期待があるように思われます。その時が来たら、ヤコブとヨハネがその左右の座につくことができるように。いわば、右大臣、左大臣の座に就かせてくださいという願いでした。

 「ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた」と言います(マタイ二〇・二四)。以前にも弟子たちの中には、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」ということが話題になったことがありましたが(マタイ一八・一)、王なるイエス様のすぐそばで、一番偉いものとなれたらという願いは、弟子たち共通のものであったようです。

 しかし、イエス様は示されたのは全く別の生き方でした。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(マタイ二〇・二五~二七)偉くなろう、先頭に立とうという生き方ではなく、仕える者、しもべとしての生き方を示されました。そして、次のように言われました。

 

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。(マタイ二〇・二八)

 

 イエス様ご自身が仕える生き方、しもべとしての生き方を選んでおられること、そのような生き方の究極として、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えようとしておられることを語られます。

 イエス様は世界の王となられる前に、苦難のしもべとして死のうとしておられました。ろばの子に乗ってのエルサレム入城は、まさにしもべの道、苦難の道を通って王となろうとしておられることの証しでした。「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」と言われるイエス・キリストは、私たち一人ひとりのためにその道を進んでくださいました。

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