長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「神と共に生きる」第十一話 十字架上での死

2023-04-20 19:38:13 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十一話 十字架上での死

マタイ二七・三九‐五四

 

 真理の言葉を語り続け、多くの人々の病を癒やして来られたイエス・キリストは、人々から大きな注目を受けました。しかし、ユダヤ人指導者たちはその状況をねたみ、まずはユダヤ人の最高法院を招集し、神殿への冒瀆、また神への冒涜を罪状として、死に値すると結論づけます。

しかし、当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、自分たちで人を死刑にする権限を持っていませんでしたから、彼らはイエス様をローマ総督ピラトに訴えます。罪状はユダヤ人の王を自称しているというものでした。ピラトはイエス様が死刑に値するようなことをしていないと判断。しかし、ユダヤ人指導者は群衆の扇動にも成功し、死刑判決をくださない限りは暴動にもなりそうな状況を引き起こします。それを見たピラトは、遂に十字架刑を言い渡します。

十字架刑は、ローマ帝国下で行われていた死刑の手段の中でも、最も残酷と言われていたもの。その十字架にキリストがつけられ、長時間激しい痛みの中に置かれた末死んでいかれたことは、恐ろしい悲劇でした。

 しかし、キリストの生涯を描いた四つの福音書は、その様子を描きながら、その死が単に悲劇に終わるものではなく、それこそが罪人に対する神の救済のご計画のクライマックスであったことを告げています。マタイの福音書の描写から、キリストの死の意味を考えてみましょう。

 

一、人々のあざけりの中で

 

通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ二七・三九‐四三)

 

 十字架につけられたキリストのもとを多くの人々が行き交っていました。その多くは、十字架につけられたイエス様に向かい、あざけりの言葉を投げかけます。「神殿を壊して三日で建てる人よ」、「もしおまえが神の子なら」、「イスラエルの王」、「神のお気に入り」、「『わたしは神の子だ』と言っている」…これらの言葉は、彼らがユダヤ人の裁判や総督ピラトのもとでの裁判の様子を見聞きしていたことを示します。イエス様はそのように主張しているとして訴えられ、死刑に値するとの判決を受けておられました。そのような裁判の様子を見聞きした者たちは、十字架につけられたままになっているイエス様に向かって、もし主張してきたとおりの者であれば、「自分を救ってみろ」、「十字架から降りて来い」、「(神に)救い出してもらえ」とあざけります。しかし、イエス様は彼らのあざけりに対して一言もお応えになりません。沈黙のうちに十字架につけられたままでおられました。

 イエス様はその時、ご自分を救う力を持っておられなかったのでしょうか。神の御子でなかったので、十字架から降りて来ることができなかったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

 前夜、大祭司がイエス様に向かって「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問われたとき、「あなたが言ったとおりです。」と答えられたイエス様(マタイ二六・六三、六四)。そのお答えがご自分の死刑判決を決定づけるであろうことをご存じのうえで、あえてそう答えられたイエス様は、まさにその通りのお方でした。そうであれば、この時、十字架から降りて来てご自分を救うことは簡単なことのはず。イエス様は神様のご計画実現のためには、この死を引き受けなければならないと分かっておられました(マタイ二六・五三、五四参照)。

 

二、わが神、わが神、どうして

 

 イエス様が十字架につけられて後、正午ごろから闇が全地を覆いました。午後三時ごろ、イエス様は大声で叫ばれました。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ二七・四六)

 

 「エリ、エリ、サバクタニ」はアラム語で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。一見、絶望の叫びに見えます。しかし、この一言の中に、キリストの十字架上での死の意味が隠されています。

 神の御子が神から見捨てられる…あり得ないことです。しかし、そのあり得ないことが起こったのが十字架上でのキリストの死でした。

 このことについて、使徒パウロは次のように書いています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(第二コリント五・二一)本来、神に見捨てられなければならないのは、神の前に罪を持って生きてきた私たちではなかったでしょうか。しかし、私たちが罪ありとして神に見捨てられることがないために、罪のない神の御子が罪ありとされました。その結果、神に見捨てられるはずのない神の御子が神に見捨てられた…それが十字架上で起こった出来事でした。

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」この叫びは、十字架上で神の御子が罪人の立場に身を置かれ、神の峻厳な裁きを受けてくださったことの結果でした。

 

三、裂けた神殿の幕

 

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ二七・五〇、五一)

 

 やがてイエス様は十字架上で息を引き取られました。この時、地震が起き、墓が開いて、多くの人々のからだが生き返ったと言います。このような出来事を見て、ローマの百人隊長やイエス様を見張っていた人々は「この方は本当に神の子であった」と言いました(マタイ二七・五四)。

 そのような出来事の一つとして、もう一つ、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事が記されています。このこともまた、イエス・キリストが十字架に死なれたことの意味を暗示しています。

 神殿は、奥の至聖所と手前の聖所の二つに区切られており、その間には垂れ幕が下がっていました。この幕を通って至聖所に入ることができるのは、年に一度、大祭司がいけにえの血を携えて入ることができるだけでした。このことは、罪人がそのままでは神の御前に出て行くことができないことを示しています。

しかし、キリストが十字架に死なれたとき、神殿の幕が真っ二つに裂かれました。このことは、罪人が神の御前に進み出ることができるための道が開かれたことを示しています。「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・一九、二〇)

神の御子が十字架に死なれるという悲劇的な出来事は、単に悲劇で終ることではありませんでした。私たち罪人が、神のもとに立ち返るための道を開くため、どうしても必要なことでした。私たちの罪を担い、神の御子が十字架に死んでくださったことにより、私たちの罪が贖われ、神の前に進み出る道が開かれました。

 神様が私たちのために成し遂げてくださったことが理解できるでしょうか。途方もない方法を通して、神は私たちのための救いの道を開いてくださいました。一度限りで、人間のための完全な贖いを成し遂げる神のみわざ…それが十字架上での神の御子の死でした。

「イエスは…この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・二〇)開かれた道を通って、私たちも神の前に進み出ようではありませんか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天国会員合同記念礼拝 | トップ | 子ども大会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神と共に生きる」カテゴリの最新記事