長田家の明石便り

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「神と共に生きる」第十七話 聖なる都への招き

2023-06-01 20:54:33 | 神と共に生きる

第十七話 聖なる都への招き 黙示録二一・一‐七

 

 「神と共に生きる」というテーマに焦点を当てながら、聖書を学んできました。最後に、神様が世界の歴史のゴールとしてどのようなものを備えておられるのか、ヨハネの黙示録から学びます。それは、信仰者一人ひとりがめざすべきゴールでもあります。

 

一、聖なる都の出現

 

 使徒ヨハネは、信仰のゆえにパトモス島に島流しにされていました。彼はそこで、これから起こる事柄について、神様から数々の幻を与えられます。その最後に見せられたのが、聖なる都についての幻でした。

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録二一・一、二)

 

 「新しい天と新しい地を見た」と言います。「以前の天と以前の地は過ぎ去り」ともあります。天と地、万物を創造された神様は、世の終わり、この世界を新しくされる時が来ると言います。

 私たちの生きる世界は、人間の罪故に汚染され、様々な災いの起こる世界です。痛みや悲しみが尽きない世界と言ってもよいでしょう。しかし、そのような世界が過ぎ去る時が来る、新しい天と新しい地が備えられるのだと言います。

 世界の歴史は苦難に満ちています。世の終わりが近づくにつれ、その度合いはますます強まるようです。しかし、やがてキリストが再び来られ(再臨と言います)、世界は終わりを迎えます。キリストの再臨と新天新地の出現は、同時であるのか、時間的差異があるのか、諸説ありますが、世界の歴史がキリストの再臨、新天新地の出現を通して終わりを迎えていくことは確かなようです。

 新しくされた天と地において現れるのが「聖なる都」と呼ばれるものです。この都の情景は、黙示録の最後の二章にわたって詳しく記されています。世界のゴール、そして信仰者一人ひとりのゴールとして神様が備えておられるのが、この都です。

 

二、都の情景

 

 この都では、神様が人々と共におられるということが鮮やかに示されています。

 

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(略)」(黙示録二一・三)

 

 旧約聖書で神の前に出る場として備えられた「神の幕屋」は、祭司たち限られた者たちだけが足を踏み入れることのできる場所でした。しかし、イエス・キリストの死による贖いによって、私たちの罪が赦され、神の前に出ることができる道が備えられました。信仰によって私たちは、愛なる神様と共に生きる幸いを日々味わうことができます。同時に、信仰者の歩みの中では、神から引き離そうとする悪の力も経験します。地上での歩みは、そのようなものとの戦いなしにはありえません。しかし、この都では、「神は人々とともに住み、人々は神の民となる」。このお方から引き離そうとする力は取り去られ、神と共にある幸いだけがこの都を支配しています。

 続いて「大きな声」は次のように語ります。

 

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録二一・四)

 

 現在、信仰者の歩みは、神が共にいてくださることを覚えつつも、数々の困難があります。悲しみの涙を流すこともあります。死による別離を経験することもあります。しかし、この都ではそのようなものはありません。地上での歩みの中で沢山の涙を流したとしても、神様は「彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と言います。

 私が若い頃の話ですが、ある教会の教会学校(子どもたちのための集い)の中で、黙示録のこの箇所からお話したことがあります。この都には涙がありません、死もなく、悲しみや苦しみもありませんとお話しました。ふと見ると、すぐ目の前で聞いていた子が静かに涙を流していました。何か最近辛いことでもあったのでしょうか。分かりませんが、聖書の希望がその子にも何がしかの励ましを与えたとすれば感謝なことだと、今でも時折思い起こします。

 

三、都に入る者

 

 どういう人たちがこの都に入るのでしょうか。「御座に座っておられる方」(黙示録二一・五)、すなわち神様がこのようにヨハネに語られます。

 

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録二一・六‐八)

 

 また、ヨハネは次のようにも書いています。

 

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(黙示録二二・一四‐一五)

 

 この都は神の栄光によって照らされた場所です。その光のゆえに太陽も月も必要とされないと言います(黙示録二一・二三)。光輝く神様が支配される都であれば、すべての闇のわざ、神様に喜ばれない罪悪、不正、汚れを抱えたままでは、この都に入れません。しかし、前回学んだように、神様の光に照らされるなら、罪なしと言える者はひとりもいません。そうであれば、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 「自分の衣を洗う者たちは幸いである」とあります(黙示録二二・一四)。罪に汚れた生涯を、御子の血によって洗いきよめて頂くことができます。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」(黙示録二一・六)贖いの代価は御子の血によって既に支払われています。罪を悔い改め、御子を信じる者に、神様は罪の赦しを与え、神様と共に生きる新しいいのち、永遠の都に迎えられる恵みを備えてくださいます。

 なお、世の終わりに至るまでに死んだ信仰者は中間的な場所に迎えられ、キリストと共にあるようです(ルカ二三・四三、ピリピ一・二三)。世の終わりを迎えると、すべての者が一度よみがえらされます。神に背く生き方をしてきた者は火の池に投げ込まれますが(黙示録二〇・一一‐一五、二一・八)、自分の衣を洗った者たちは永遠の都に迎えられます。

 聖書に示されたメッセージは、このようなものです。神様は聖書を通してすべての者を招いてくださいます。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙示録二二・一七)ぜひあなたも、神様が備えられた豊かな恵みを、信仰をもって受け取ってください。そして、神を愛し、周囲の人々を愛しながら、神と共に生きる幸いを味わう生涯を送られますように。

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