第八話 天におられる父なる神
マタイ七・七‐一一
イエス・キリストは群衆に福音を宣べ伝えるとともに、ご自分のもとに集まった弟子たちに多くのことを教えられました。マタイの福音書六‐八章に記されている教えは、その中でも山の上でなさったもので、山上の説教と呼ばれます。
この時の教えの大きな特徴の一つは、神様を「天におられるあなたがたの父」として示されたことです。天地創造の神様は、私たちを心にかけ、愛しておられるお父様のような方だと言います。そして、このお方と共に生きていくことを学ぶようにと教えられました。その教えのいくつかを学んでみましょう。
一、父なる神のように愛する
キリストの教えの中でも、聞く者、読む者に衝撃を与えるものに、次のような教えがあります。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ五・四四)当時、ユダヤ人たちの間で言い交わされていたことは、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」ということでした(マタイ五・四三)。身近な人々を愛することがよいことだということは、世界中どんな人でも納得します。しかし、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とは、聞いていた弟子たちも驚いたことでしょう。びっくり顔の弟子たちにイエス様が示されたのは、天におられる父なる神様のお姿でした。
天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ五・四五)
太陽の光は悪人であろうと善人であろうと、分け隔てなく注がれます。また、恵みの雨は正しい者にも正しくないものにも、やはり分け隔てなく注がれます。そのように天の父なる神様はどんな人間であっても分け隔てのない愛を注いでおられる。そうだとすれば、私たちも自分によくしてくれる人だけでなく、敵対してくる人をも愛し、その祝福を祈る生き方をしなさい。そうであってこそ、天の父の子どもとして生きていくことができる…そう教えられました。
二、父なる神の前で生きる
続いて、キリストはこのように教えられました。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。(マタイ六・一)
具体的には、当時、ユダヤ人たちの間で良い行いと考えられ、重んじられていた三つの行為を取り上げておられます。施し、祈り、断食です。これらは、いずれも良い行いではありますが、人前でしないようにと言われました。
たとえば、当時施しをするのに、会堂や通りでラッパを吹いてから施しをする人、会堂や大通りの角に立って祈る人、断食をするときわざと暗い顔をしたり、顔をやつれさせたりする人がいたようです。しかし、そのようなことをしないようにと戒められました。むしろ、これらのことを人が見ていないところでこっそりとするなら、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」と言われました(マタイ六・四、六、一八)。
私たちは人の目を意識し、人がどのように評価してくれるかを気にしながら生きているのではないでしょうか。しかし、本当に大切なことは、すべてをご存じの天の父なる神様の前で正しく生きることだと言われました。
三、父なる神に信頼して生きる
「空の鳥を見なさい」、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。」といった教えも有名です(マタイ六・二六、二八)。これは、明日のことを心配して生きることを戒めるもので、たとえば、空の鳥は「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。」と指摘されました(マタイ六・二六)。だから心配するな、ということでした。
また、野の花は「働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」と言われました(マタイ六・二八‐三〇)。だから、心配しなくてもよいと言うのです。
あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。(マタイ六・三二)
食べるもの、着るもの、生きていくのに必要なこれらのもののことについて、天の父なる神様にお任せし、心配しないで生きていく…そんな生き方をキリストは教えられました。
四、父なる神に祈る
最後に、もう一つ、有名な教えをご紹介しましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。」というものです。あまりにもシンプルで、「本当にそんなことでよいのか」と思うほどです。しかし、この教えを根拠づけるのも、天の父なる神様への信仰です。
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイ七・九‐一一)
パンを求めてくる子に、少し形が似ているからと言って、石を与える親はいません。魚を求めてくるのに、形が近いからと言って蛇を与える親もいません。自分の子に対して、時には愛情を示せなくなってしまうような人間の親であってもそうであるとすれば、天の父なる神様がご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないはずがない、というわけです。
私が島根県に住んでいたときのことでした。関西で牧師のための研修会が開催され、参加した帰り、友人の牧師たちに新幹線新神戸駅まで車で送ってもらったことがありました。彼らを見送った後、ポケットに財布がないのに気づきました。財布には帰りの新幹線の切符も入っていたので焦りました。
携帯電話のない時代、十円玉さえないので公衆電話も使えません。困惑が広がる中、「こんな時こそ祈りだ」と気づきました。「天の父なる神様、ご覧の通りです。私が座っていた座席の隣の友人が落ちた財布の方に顔を向け、見つけるようにしてください。」祈ると心に安心が来ました。財布を見つけても戻ってくるのに時間がかかりますので、その場で待ちました。「そろそろ帰ってくる頃」と思っていると、先ほど見送った車が戻ってきました。中から友人がニッコリして財布を差し出してくれました。
天の父なる神様を信じて生きるということは、小さな子どもが親に抱かれて生きるときの安心した心持ちで生きるのに似ています。不必要な心配によって気を病む必要はありません。人の評価ばかり意識して、不自由になる必要もありません。「単純すぎる」と言われるかもしれませんが、キリストは「向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません」とも言われました(マタイ一八・三)。単純なようでも、子どものように信頼しきった信仰で天におられる父なる神様を見上げながら生きるとき、そこに新しい生き方が開かれていきます。
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