長田家の明石便り

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「神と共に生きる」第七話 神の国への招き

2023-03-15 10:41:45 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第七話 神の国への招き

マルコ一・一四、一五

 

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。(マルコ一・一四)

 

 イエス・キリストが公に宣教活動を開始されたのは、年およそ三〇歳の時と言われます(ルカ三・二三)。その働きの中心にあったのは、福音を宣べ伝えることでした。「福音」とは、良い知らせのことです。キリストが伝えた良い知らせとは、どのようなものだったのでしょうか。

 

一、時が満ちた

 

時が満ち、神の国が近づいた。(マルコ一・一五)

 

 イエス様が福音において語られた第一のことは、「時が満ちた」ということでした。「時」とは、「約束の時」のことです。これまで見てきたように、神様は様々な形でメシア到来の約束を与えておられました。

 これまで見てきたように、神の民として選ばれたはずのイスラエルの民は、神に背き、罪を重ねたことにより国の滅亡を経験します。そのような中で、預言者たちが伝えたことは、彼らの罪ゆえにこのような悲劇がもたらされたのであること、そして、にもかかわらず神様は彼らのために回復の道を備えられるということでした。そして、その鍵となるのがメシアの到来であることを預言者たちは様々な形で伝えましたした。

 イエス・キリストは、このような旧約聖書の約束に基づき、ご自分が神から遣わされた以上、約束の時は満ちたのだと宣言されました。

 

二、神の国が近づいた

 

 イエス様が福音において語られた第二のことは、「神の国は近づいた」ということでした。

 当時のユダヤ人たちは、メシアの出現を待ち望んでいました。同時に、神の国の訪れを待ち望んでいました。メシアの出現によって神の国が成就すると考えましたから、二つのことは一つでした。イエス様は世を救うメシアとしておいでくださいましたから、確かに「時が満ち、神の国は近づいた」のでした。

 しかし、ユダヤ人たちの間で、メシアに対する理解は様々であり、神の国がメシアによってどのように実現していくのかについても、色々な考え方があったようです。そのような中で、イエス様はどのような意味で「神の国は近づいた」と言われたのでしょうか。

多くのユダヤ人は国の復興をもたらす政治的、軍事的な力を持ったメシアをイメージしていたようです。実際、イエス様をそのように理解しようとした人々もいました。しかし、イエス様はそのような人々から身を退け、ある場合にはそのような考え方を明確に否定されました(ヨハネ六・一五、一八・三六)。むしろ、神の国は人々の目に触れない小さなところから始まると言われました。しかし、いつしかそれは大きな国となり、イスラエルの民ばかりでなく世界中の人々が集い来たることになると言われました(マルコ四・三一、三二、ルカ一三・二九、一七・二〇、二一)。

たとえば、イエス様は神の国をからし種にたとえられました(マルコ四・三〇‐三二)。からし種は、ごま粒よりも小さいものです。しかし、からし種が植えられ、芽が出て、段々大きくなると、大きな木のようになり、鳥も宿るほどになります。そのように、神の国は目に見えない領域、すなわち信じる者たちの心と生活の中に始まり、徐々に大きくなって、やがて地を覆うようになることを教えられました。

イエス様が神の国をもたらすメシアとして来られたとすれば、それはどのようにしてもたらされるのでしょうか。この点は、後に詳しく学ぶことになりますが、何よりも私たちの罪を根本的に扱うことを通してでした。すなわち、私たちの罪のために十字架につけられて死ぬこと、三日目によみがえることを通してでした(ルカ二二・一五‐二〇、ヨハネ一四・二、三)。

 神の国の最終的な実現のためには、なお時が定められています。世の終わり、キリストが栄光のうちにおいでになるとき(これをキリストの再臨と言います)、神の国は最終的な形で実現していきます(ルカ二一・二七、三一)。イエス様は神の国をしばしば宴会の情景として描いておられますから(ルカ一四・一五‐二四)、そのときには、喜びと楽しみだけが満ちることでしょう。悲しみや苦しみは過ぎ去り、神の愛のもと、喜びが満ち溢れることでしょう(黙示録二一・二‐四)。

 なお、世の終わりの神の国実現に至るまでに、死の時を迎えた信仰者はどうなるのでしょうか。おそらくは、中間的な安息と慰めの場に迎えられるようです(ルカ一六・一九‐二六、二三・四三)。

 最終的な神の国実現まで、あるいは、死によって安息の場に迎えられるまで、時の経過が必要です。それまで、信仰者は「御国が来ますように」と祈りつつ、神の御心の中で、神様と共に生きていきます(ルカ一一・二)。

信じる者の生涯にも、悲しみがあり、苦しみもあります。しかし、それでも、神様は悲しみの中に喜びを、苦しみの中に忍耐と平安を与えてくださって、神と共に生きる幸いの中に私たちを導いてくださいます(ルカ六・二〇、二一)。

 水野源三という方は、「瞬きの詩人」と呼ばれています。小学生四年生のとき、赤痢から来る高熱によって脳性小児麻痺を患い、手や足の他、口も自由に動かせなくなりました。幸い、その後数年して、キリストの福音を耳にし、キリストを信じる者となりました。瞬きだけが意思表示の手段でしたが、その瞬きによって信仰を背景とした沢山の詩を残されました。

 「悲しみよ」という詩があります。「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら 私は今どうなっていたか 悲しみよ悲しみよ お前が私を この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある 主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」(水野源三著『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター発行、六七頁)

 大きな苦しみ、悲しみの中を通されましたが、水野さんはキリストの福音を通して確かに神の国の幸いをお知りになりました。

 

三、悔い改めて福音を信じなさい

 

悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ一・一五)

 

 「時が満ち、神の国が近づいた」と言われたイエス・キリストは、結論として言われました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。約束のメシア、イエス様が現れ、神の国が近づいた今、神の国に入るためにどうすればよいのか、イエス様は二つのことを言われました。

 第一は、悔い改めです。これは、心の転換を意味する言葉です。これまで神様に背を向け、自分勝手に生きてきたとすれば、心と生活の向きを変え、神様のほうに顔を向け直し、神様に向かって歩み始めることです。

 第二は、信仰です。すなわち福音を信じることです。「神の国が近づいた」と言われる、神様からのよい知らせ、イエス・キリストを通してもたらされたこのよい知らせを、そのままそっくり「信じます」と受け取ることです。

どんなに良い知らせがあっても、信じなければ、その人にとってその知らせは役に立ちません。「悔い改めて、福音を信じなさい。」神様の招き、イエス・キリストの招きに、信仰をもってお応えになりませんか。

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