長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「神と共に生きる」 第九話 生ける神の子キリスト

2023-03-30 16:24:20 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第九話 生ける神の子キリスト

マタイ一六・一三‐二三

 

 イエス様の教えは人々の反響を呼んでいました。また、病で苦しんでいる人々を癒やしたり、悪い霊に憑かれて苦しんでいる人から霊を追い出したりもしておられましたから、イエス様の噂は急速に広まりつつありました。

ある時、イエス様の働きにおいて重大な転換点を迎えることになります。このとき、イエス様はご自分が何者であり、これからどのような道を進もうとしているのか、弟子たちに明らかにされます。

 

一、人々は人の子をだれだと言っていますか

 

ピリポ・カイサリアという地に行かれたときのことでした。イエス様は弟子たちに一つの質問をされました。

 

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。(マタイ一六・一三)

 

 「人々は人の子をだれだと言っていますか」という質問でした。「人の子」とは、イエス様がご自分をさしてしばしば用いられた表現ですので、人々がイエス様に対してどういう見方をしているかを問うものでした。

これに対して、弟子たちは口々に答えました。「バプテスマのヨハネだという人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(マタイ一六・一四)これらは、実際に弟子たちが耳にしたイエス様に対する当時の人々の声だったことでしょう。大方の見方は、神から遣わされた特別な預言者として見ていたようです。

 

二、あなたがたはわたしをだれだと言いますか

 

 次に、イエス様はもう一つの質問をなさいました。

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ一六・一五)

 

 これは、イエス様にとっても、弟子たちにとっても、先程の質問よりはるかに重要な質問でした。人々の見方が種々様々であることは当然のことでした。しかし、寝食を共にしながらイエス様の弟子として歩んできた者たちが、イエス様をどういうお方と見ているのか、改めて問われたとき、弟子たちの間に緊張が走ったかもしれません。しばらくの緊張した空気を破って答えたのはペテロでした。

 

シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ一六・一六)

 

 これは正しい答えでした。イエス様も、「バルヨナ・シモン(ペテロのもともとの名)、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」と言われました。父なる神様があなたにこのことを明らかにしてくださいました、ということです。見事な正解でした。

 しかし、ペテロ自身が自分の出した答えをどこまで正しく理解していたかは、議論の余地があります。「神の子」と言いましたが、以前に見たような、ひとり子なる神、父なる神と同じ神としての本質を持つお方として、きちんと理解できていたかは分かりません(第五話参照)。しかし、普通の人間にはできない奇跡のみわざを見ましたから、神様との特別な関係を持つお方として見始めていたのは確かです(マタイ三・一七、一四・三三)。

 また、「キリスト」と言いました。これは、イエス様を約束されたメシアとして信じる信仰を言い表しています。しかし、当時、メシアについてのユダヤ人の見方も種々様々でしたから、ペテロが「キリスト(メシア)」についてどういうイメージを持っていたかは不明の部分があります。少なくとも、彼のメシア観には大きな欠けもあったようで、そのことは次の瞬間明らかにされていきます。

 しかし、彼が答えた回答自体は確かに正しいものでした。イエス様はまさに「生ける神の子キリスト」でした。

 

三、受難のメシアとして

 

そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。(マタイ一六・二一)

 

 この時、イエス様の宣教活動は大きな転換点を迎えていました。「あなたこそ生ける神の子キリスト」と、弟子たちの中から信仰を告白する言葉が語られたとき、それまでになく明確に、イエス様は今後のことを明らかにされました。やがてご自分がエルサレムに行き、ユダヤ人指導者たちから多くの苦しみを受けること、殺されること、三日目によみがえることを示し始められました。

 これは、弟子たちにとって衝撃を与えることでした。少なくとも、ペテロにとっては受け入れられることではありませんでした。彼は即座に言います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ一六・二二)彼の理解では、メシアがユダヤ人指導者から苦しみを受け、殺されることはありえないことでした。むしろユダヤ人指導者に受け入れられ、ローマの属州の状態にあったユダヤの民を独立、解放へと向かわせてくれると考えたのかもしれません。軍事的な力によって王国を立て上げてくれると考えたかもしれません。ですから、ペテロはイエス様が言われたことを「とんでもないこと」と考え、イエス様を「わきにお連れして、いさめ始め」ました。

 しかし、それを聞かれたイエス様はペテロの方を向き直って言われました。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ一六・二三)つい先ほど、イエス様への正しい信仰告白をしておほめの言葉を頂いたばかりのペテロが、今度はおしかりの言葉を受けました。なぜでしょうか。

イエス様がメシアとして歩もうとしておられる道は、ペテロがメシアにふさわしいと考えていたような道とは全く違っていました。そもそもイスラエルの民が国の滅亡を経験し、大国の支配下に置かれるに至ったのは、神様に対する彼らの背きの罪のためでした。ですから、そこからの解放も軍事力の行使によっては果たされず、人々の罪をきちんと扱わなければなりませんでした。ですから、イエス様はご自分が人々の罪を負い、苦難を受け、死に至る、「受難のメシア」としての道を歩もうとしておられました。

その歩みは神が定められた道であり、主イエス様はその道へと進むことを決意しておられました。ペテロがイエス様をその道から逸らそうとしたとき、イエス様はその背後にサタン(悪魔)の働きを見ました。イエス様がその道から外れることを一番願っていたのがサタンだったからでしょう。

これらのことは、この時のペテロには理解できませんでしたが、後に理解するようになります。後に彼は諸教会への手紙の中にこう書きました。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ二・二四)イエス様は、罪の中に滅びに向かおうとする私たちを救うために「受難のメシア」としての道を歩んでくださいました(イザヤ五三章参照)。

メシアとして来られたイエス様がどうしてそのような道に進まなければならなかったのか…誰しも抱く疑問です。しかし、このことは決して他人事として考えることはできません。なぜなら、イエス様の受難は、誰もが内に抱える課題に解決を与えるためのものだからです。神様に背を向け、神への愛、人への愛に背く生き方へと傾きやすい私たち、否実際そのような道を歩んできた私たちに、回復の道、救いの道を備えるためのものだったからです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 栄一&恵誕生日 | トップ | 柿その後 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神と共に生きる」カテゴリの最新記事