聖書が告げるよい知らせ
第二十七回 和解への招き
Ⅱコリント五・一八‐六・二
地中海世界一体に福音を宣べ伝えたパウロは、自分の宣教によって生まれた諸教会のことをいつも心にかけていました。中でもコリントの教会は様々な問題をいつも抱えており、何度か手紙を書いています。その内の一編『コリント人への手紙第二』を書いたとき、コリント教会の中にはパウロが使徒であることを疑ったり、否定したりする者もいたようです。彼はこの手紙の中で、神から与えられた使徒としての務めについて弁明するとともに、彼が伝えてきた福音の内容を何度も確認しています。パウロの使徒性を疑うことは、パウロが伝えた福音を疑うことにつながるからです。
五章終りから六章はじめにかけて、パウロは自分の務めを「和解の務め」と言い、彼が伝えた福音を「和解のことば」と言いました。福音とは神との和解への招きである…そのようなパウロの理解を見ることができます。
一、和解の務め
これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。(Ⅱコリント五・一八、一九)
パウロは、かつて自分自身、神との敵対関係にあったことを認めています。自分ではユダヤ人として神を信じ、神に従っている、神のために生きていると考えていました。しかし、実際には神が遣わされたキリスト、イエス様を否定し、神に敵対していました。しかし、神様は彼をあわれみ、幻のうちに復活のキリストと出会う経験を与え、彼は自分の間違いを悟りました。それまではクリスチャンの迫害者であった彼が、一八〇度の転換をし、キリストの使徒として生きるようになりました。
彼はここで、自分に与えられた務めを「和解の務め」と呼んでいます。かつての自分がそうであったように、神に敵対して歩んでいる者たちが神との和解へと導かれるよう福音を伝える…これが「和解の務め」でした。
彼は自分の過去の過ちが赦されたばかりか、このような大切な務めが与えられたことをどんなにか喜んだことでしょうか。多くの苦難もありましたが、大切なこの使命のために命がけで働き続けました。
二、和解への招き
彼は、自分に与えられた務めを「和解の務め」と呼び、自分が伝えるよう召された福音を「和解のことば」と呼びました(Ⅱコリント五・一九)。そして、その内容を、以下の二節の中に簡潔に書き記しました。
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(Ⅱコリント五・二〇、二一)
「神が私たちを通して勧めておられる」、「私たちはキリストに代わる使節」、「私たちはキリストに代わって願います」…このような表現を見るとき、福音とは単に人間の思想、考えでないことが分かります。福音は、神が人々に語りかけておられるのであり、キリストが人々に願っておられることを伝えるものです。 神様は私たちに何を語り、キリストは私たちに何を願っておられるのでしょうか。
「神と和解させていただきなさい。」…ここに神の勧め、キリストの願いがあります。
パウロがかつてそうだったように、私たちも知らず知らず、神の御心を無視し、神様に背を向け、神様と敵対して歩んでいる…そうだとしたら、もう一度神様に顔を向け直し、神様との和解へと進む必要があります。
しかし、神との敵対関係の原因が私たちのほうにあったのであれば、私たちはどのようにして神との和解を成り立たせたらよいのでしょうか。パウロは言います。そのために必要なすべてのことは、神が備えてくださったのだと。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」…「罪を知らない方」とは罪なき神の御子イエス・キリストです。このお方を私たちのために「罪とされた」と言います。このお方は罪なきお方であるのに、十字架の上で、罪ある者として定められ、断罪されました。なぜでしょうか。
「それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」罪なきお方が罪とされた、それは、罪ある者たちがその罪を赦され、「神の義となるため」だと言います。
「神の義」とは、ローマ人への手紙の中でも繰り返し現れる表現で、複雑な意味を持っています(ローマ一・一七、三・二一等)。しかし、その中で見逃せない大切な意味は、神の恵みにより、信仰によって与えられる「神からの義」というものです。本来、神の前に罪ありと宣告され、断罪されるべき私たちが、ただ神の恵みにより、キリストの贖いのみわざゆえに、神の前に義としていただく、神からの賜物としての「神からの義」です。この恵みにより、私たちは、かつては神との敵対関係にあったとしても、神と和解し、神様のご愛の中で、自由に、喜びをもって、生きていくことができます。
三、恵みの時、救いの日
このような和解の福音を書き記した後、パウロは次のように書き加えます。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です。(Ⅱコリント六・一、二)
先には、神の代理人、キリストの使節として、神の招き、キリストの願いを書き記しました。ここでは「神とともに働く者」として、読者に向かって呼びかけ、勧めます。「神の恵みを無駄に受けないように」と。
コリント教会の人々がパウロの使徒性を疑い、パウロの語った福音をあいまいに受け取り、結局はこれを否定して進むこともあり得ないことではありませんでした。しかし、そうだとすれば、自分が折角伝えた「神の恵み」は無駄になる、神の絶大なご犠牲、キリストの贖いのみわざは、無駄に帰する、少なくともあなたがたにとっては…。そんなパウロの切実な訴えが聞こえてきます。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」これは、イザヤ四九・八の引用です。かつて神様は預言者イザヤを通して、イスラエルの人々に語りかけました。「あなたがたの罪がいかに深く、そのためにどれほどの悲惨をあなたがたが経験するとしても、私はあなたがたのために恵みを備え、救いを備える」と。ユダヤ人はそれがいつ、どんな時かと考えたかもしれませんが、パウロは言います。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日」と。今こそが、神が備えられた恵みの時であり、救いの日なのだ、今こそ、神の招きに応えて、神の恵みを受け取りなさいと。
神のご計画の中で、今も「恵みの時」、「救いの日」であることに変わりありません。神の招きに、信仰をもってお応えしましょう。
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