長良の鵜 ズボラ余生

「ズボラ余生とは」:
何事も、前向きに捉え、楽天的に生きていくことです。

川柳は難しい

2010-12-02 09:10:46 | Weblog

柳誌が届いたので、読んでいて、川柳って本当にこれでよいのだろうかと思った。
もともと、川柳は庶民から出たもので、誰でも読んで、分かりやすいものであったはずである。
ところが最近の川柳は、いろいろと解釈できるような句が奥深いとして、良い句とされている。
例えば、柳誌に載っていたつぎの句とその鑑賞をここに書き出してみる。
「菓子箱を重ね女を自愛する
・ ・・・もちろん、この菓子箱は、単純に菓子箱ではない。ここが、○○さんの上手なところ。菓子箱は水面に移った自分の分身といえる。・・・」
川柳にも、印象吟とかいろいろな読み方がある。
しかし、川柳は17文字の文芸である。
菓子箱が自分の分身であるとは、どのように読み解いたら、そうなるのであろうか。
もし自分の分身を想起させないような菓子箱が、自分の分身なら、下駄箱でも、たんすでも、鏡台でも何でもいいことになる。
また、水面に映ったとはまったく書いてないが、自愛というだけで、ナルキッソスを思い浮かべ、水に映った自分を・・・となったら、ある一つの句を読んでも、その中から何を読み取ったらよいか分からなくなる。
もちろん、これはある人の鑑賞であり、詠んだ人がどのような内容を詠みこんだかはわからない。
川柳を長くやっている人は、より文学的ということで、いろいろと解釈できるような表現を好んで使っているだけではないだろうか。


流行語大賞

2010-12-02 09:09:44 | Weblog
昔の流行語には、その時代を反映する言葉であり、その年の大部分の期間にはやったものが選ばれていた。
だから、今から読んでも懐かしい。
ところが、最近は、「新語・流行語トップ10」として、今朝も新聞に出ているが、あまりはやった感じがしない。
その原因は、流行語大賞を狙って、作為的にはやらせようとしているものもあるからである。
また、少し格好いいことを言えば、たった一度誰かが言った言葉でも、選ばれてしまうからである。
早大の斉藤投手の「何か持っている。・・・」でも、野球に関心がなく、知らない人は一度も聞いたことがないのではないだろうか。
あれを作為的といったら言い過ぎかもしれないが、確かにインタビュー慣れしていて、何か人をひきつけるような言葉をいおうと考えていたのではないかと思う。
もうそろそろ、こんなもの止めたらどうだろうか。