柳誌が届いたので、読んでいて、川柳って本当にこれでよいのだろうかと思った。
もともと、川柳は庶民から出たもので、誰でも読んで、分かりやすいものであったはずである。
ところが最近の川柳は、いろいろと解釈できるような句が奥深いとして、良い句とされている。
例えば、柳誌に載っていたつぎの句とその鑑賞をここに書き出してみる。
「菓子箱を重ね女を自愛する
・ ・・・もちろん、この菓子箱は、単純に菓子箱ではない。ここが、○○さんの上手なところ。菓子箱は水面に移った自分の分身といえる。・・・」
川柳にも、印象吟とかいろいろな読み方がある。
しかし、川柳は17文字の文芸である。
菓子箱が自分の分身であるとは、どのように読み解いたら、そうなるのであろうか。
もし自分の分身を想起させないような菓子箱が、自分の分身なら、下駄箱でも、たんすでも、鏡台でも何でもいいことになる。
また、水面に映ったとはまったく書いてないが、自愛というだけで、ナルキッソスを思い浮かべ、水に映った自分を・・・となったら、ある一つの句を読んでも、その中から何を読み取ったらよいか分からなくなる。
もちろん、これはある人の鑑賞であり、詠んだ人がどのような内容を詠みこんだかはわからない。
川柳を長くやっている人は、より文学的ということで、いろいろと解釈できるような表現を好んで使っているだけではないだろうか。