London徒然草

「ばく」のロンドン日記

梱包中

2009-10-29 | わんこ






おしりのあたりが、いま一歩ですが、かなり上級の技ではないかと思われます(笑)

ますます精進してくれたまえ。

冷凍グリーンピースと豚

2009-10-25 | 子供達


金曜日で,子ども達の学校が、学期半ばのお休みに入りました。

なんだか,疲れただの、頭が重いなどと言っていましたが、
「ぐずぐずしない!」と私に怒られながら、
最終日に学校へ行った子ども達。

今朝、土曜日の朝...でも、寝坊はできません。
No3は、日本語補習校へ、No2は、5歳児クラスの
サッカーのコーチのアルバイトに,車で送り届けて、やれやれ。

No2事,息子から,電話がかかってきました。

「具合が悪いので,迎えに来てもらえないかなあ?」

昼食を済ませ、ソファーでうとうとしていた息子、
「苦しい」と言うので、見たら、凄い熱。

「平気だよ」
と初め言っていましたが,夕方,熱を測ったら,39.7度。

これは,ついに豚インフルエンザか?

と、swine flu information line と言う,専門にもうけられている
番号に電話をして,問診を受けました。

断言はできないけれど、疑いが濃いので、
タミフルを最寄りの薬局へとりに行って下さい。





ということで、我が家のたぶん、感染第一号であります。

で,凄く熱いので、冷やそうと思って,氷嚢を出しましたが,
中に貼ってあるゴムが劣化して、水漏れ..(とほほ)
それはそうだ、何しろ,子ども達が小さかった時、
日本の生協で購入したものですから!

あげく,この国、涼しいので,氷を自宅でつくる習慣がありません。
土曜の夜で氷を買いに行くにも,ままならず。

あ,,この国にコンビニは、ないのです。

で,思い出しました。

グリーンピース。

この国ではケガや打ち身など,緊急で冷やす場合は,
冷凍庫に入っている冷凍食品を使うのが、常識であります。

幸い、グリーンピースを買い置きしてあったので,
只今、冷凍グリーンピースの大袋を抱えて息子は眠っております。



今のうちに,ゼリーでもつくっておきましょう。



フウフゲンカ

2009-10-22 | 飼い主ネタ


晴れ続きだった天気も、ぐずついて,
小雨まじりの,この季節らしいものになってきました。


愛犬の足跡だと,それだけで,愛おしい(アホ)

落ち葉も,どんどん,というか,どさどさと落ち始めました。



さて、先週末、ランチタイムのおはなし。

何気なくランチを食べながら、話をしていたら,
息子と、オットが、
「あれは,ショッキングだったよねえ~」
などと話しています。

何だろうと,問いただすと、なんと,私たち,女性軍が
この夏、日本に行っている間の出来事。

多分,男所帯、掃除など,全くしていなかったのでしょう、
ある日,朝,起きて,階下のキッチンに降りて来たら
キッチンの生ゴミから、庭に面している,ガラスのドアにむかって、
事もあろうか、はえの赤ちゃん「うじさん」ですねえ。

が、一列に行列していたそうで。

「あれ,話していなかったっけ?」



きいていません


それだけでも、充分鳥肌物で,頭の表面がゾワゾワしていたのに

「それでどうしたの?」

と尋ねたら、

「掃除機で吸い取った!!!」



「信じられない、その掃除機,帰って来てから、使っていたじゃない,
何も、知らずに私!!
パイプの中とか、先っぽは小さいブラシがぐるぐるするターボブラシだし
それで,そのまま吸い取った,って,あり得ない,信じられない」

と,取り乱し、立ち上がり、頭を振る私、パニックでありました。

「掃除機で吸ったの?」
「うん」
「生きてるまま?」
「うん」

「ぎゃー」

で、オットさん、逆切れしました。

「It's perfectly fine !!!」





このあたりの,感覚のずれが,「コクサイ結婚」なのでしょうか?

できれば,最後まで知りたくなかったなあ...こういうのは。




There is a hair in my sandwich!

2009-10-19 | オットからのメール


オットさん、一度家をでると、よっぽどの事がない限り、
私に連絡してくるような事はないタイプ。

たまに、緊急事態だと、電話をかけて来たりしますが、
連絡はと~てもまれで、それもメールです。

朝、11時前に会社のオットから、私あてにメールが届きました。
タイトルは、

「There is a hair in my sandwich!」
ボクのサンドイッチに、髪の毛が入っていたよって。

オットさんに毎日子どもと一緒にお弁当つくって持たせているのですが、
11時前だし、たとえ髪の毛が入っていたからと言って
メールしてくるような人ではないし、不思議だなあ?
それに、

「まさか、会社で早弁?」

と思って、メールをあけると....












確かにこちらでは、ミニチュアダックスは、ソーセージドッグと呼びますが...


私が犯人ではありません、あしからず。




できあい

2009-10-12 | わんこ




けさ、家族共有の、マックをみたら、
No3の、アカウントの写真が、いきなり、
自分で撮影した、どアップのピップ君。

家族みんなに、こんなに溺愛されて、悪くないよね。

さて、日本から持って帰った、村上春樹氏の、
1Q84を、やっと終了。

デビュー以来、読み続けているけれど、
村上ワールドには違いないけれど、
読むのにいつもの3倍くらいの時間がかかってしまった。

毎日、1章くらいしか読み進む事ができなかったのは
私としては、意外な展開でありました。

ロンドンの中秋の名月、何気なく見上げ、
何処かにもう一つ、月が浮かんでいそうな
そんな気がしましたが、喜ぶべきか、一つだけ。

ところで、先週、お昼ご飯が、えらく充実した週で、
その内一回は、友人がフレンチの3コースを習ったので、
つくってあげる!との、うれしいお誘い。



お料理はもっちろん、とっても、おいしかった!

で、写真は、その友人宅の真ん前の家。



こちら、イングランドのプレミアリーグサッカー
「アースナル=Arsenal」の監督さん、Arsène Wenger さんの家。

お友達の家、目の前なんです。

ヨークシャーテリアを飼っていて、試合のない日にはよくお散歩させているとか。
お友達、雪の降った日に、車が動けなくなっていたら、
わざわざ、自分の車から降りて来て、後ろからおしてくださったそうです。

お友達の家の窓から、こっそりお宅、撮っちゃいました。

私って、みーはー。


セントパンクラス駅と、運河の見えるレストラン

2009-10-07 | ロンドン暮らし


オットのお兄様の誕生日に、食事にでかけました。
パートナーである義姉が、月曜日の朝からパリで会議のため、
ユーロスターで出かける都合があり、出発駅の
「セント パンクラス駅」
のそばで待ち合わせです。

もともと、ユーロスターは、違う駅から、出発していましたが、
最近、使われていなかった、この駅の大改修工事をして、
お引越し。



外から見ると、ご覧のとおり、こてこてのゴシック建築

一昔前はこの駅の周りは、お世辞にも、上品とはいえない
怪しい雰囲気で、この建物も、長く使われずに、くたびれた姿を
さらしていたものでした。

建物のファザードは、いじらず昔のまま。
でも、中は







ガラス張りのお店が並び、ヨーロッパ独特の大きなガラスのドーム型の
屋根に覆われた、優美な列車の駅に、生まれ変わっていました。

こんな風に、列車を見ると「旅に出たくなる病」を、
懲りずに発症してしまいます(笑)

そして、ランチは・・・

この駅のすぐそばのビジネス街にある、レストラン。



目の前に運河の広がる水辺で食事ができます。



水鳥や、のんびり走って行く、カナルボートをみながら
のんびり、日曜のランチとなりました。
何を食べたか?まあ、メニューは代わり映えのしない
イギリス料理でありました。

お兄さんには、日本で買って帰った浴衣をプレゼント。



さ~て、今日の作品は、こちら。



自分の穴あきブランケットだけでは飽き足らず、
ソファーに、君の毛がつかないように、敷いたブランケットまで
器用に持ち上げて、その下にもぐっていた、ピップ先生でした。

寝起きを激写されちゃいましたよ。

やめてほしいなあ~。



祖母と中国

2009-10-05 | 飼い主ネタ




「中途半端な梱包でありますが、文句ありますか?」

と言わんばかりの,ピップ君。

「文句など、ありません」



小学校低学年のある日、父が運転する車で家族そろって
遠いドライブに行った記憶があります。

珍しい事に、離れて静岡に住んでいた,祖母がいっしょでした。

行き先は,「ぐんまのあんなか」

と言われましたが,一体全体どこなのか,当時,皆目見当もつかず。

長いドライブのあと、着いたのは,一件の個人宅でした。

「よういらした、遠い所を」
と招き入れられた、お宅で、お茶とお菓子を出され、
長い長い大人達の会話が続いていました。

引き揚げ船、とか、満州とか,顔に炭をぬる、とか、
凍ったトイレを、ハンマーで崩すとか、銃撃とか,
知らない言葉がいっぱい飛び交っていました。

満州から,幼い子ども4人を連れて,命からがら引き上げて来た
祖母が,引き上げて来た時,一緒だった家族との引き上げ以来、
初めての、再会旅行だったと理解したのは,
それからずいぶん経ってからの事でした。

次の記憶は、日中の国交が回復して,残留孤児の調査が始まり、
孤児の皆さんが、テレビで家族に訴えをしている時。

母が,「私は見られないわ」といってテレビを消しました。
「私がこの人達だったかもしれなかったから」
と泣きそうな顔をしていました。

当時、5、6歳だった母は,幼い弟をおぶって,日本に帰って来たのよ
と話してくれました。たまに、ぽつりぽつりと、話してくれる、引き上げ、
戦後の困窮の話は、戦後の高度成長期に産まれた私には、まるで、現実感のない
話としてしか、認識できず。

私たちの世代、何しろバブルの絶頂期に、大学生でしたから。

幼い頃、「おばあちゃんのうち」に行くと、
朝ご飯の前に、必ず、小さい、子どものおままごとみたいな、
足の着いた金色のお皿に、ちょっとだけ、炊きたてのご飯を備え
お水を換えて、日付のついた、小さな冊子をその日の物に変えて、
おばあちゃんは長い間、手を合わせていました。

つきめいにち、という言葉もその時覚えました。

子どもを現地の人に何度も預けようと思ったけれど、できなかった、と
話していたおばあちゃん、日本に帰国してから、間もなく、母の兄である
長男を、病気でなくしました。

今夏、母と、自分の娘達と、中国に行った時、母は、孫達に
「昔私は中国語を話していたのよ」とちょっと得意げに話していました。
「うっそ~」と娘達。

母は、今でも世界中あちこち、飛び回っている人ですが、
よく考えると、今回まで中国にはただの一度も足を踏み入れていないことに
気づきました。

自分の年齢も考え、今回、何か、思う所があったのかな?

もともと、北海道に行こう!と話していたのに、
突然、「やっぱり中国に行こう、私の足腰が立つうちに」
と言い出したのは、母ですから。

本人には、聞いてみませんでしたけれど。

そして、帰って来て、私は,今さら、
祖母が亡くなってから、5年近くもたって、初めて、
自分の祖母は、
「子どもを亡くした母だったんだ」
と、あらためて認識し、彼女を祖母としてだけでなく、
一人の女性として、その苦労続きの人生をおもったのでした。

生きているうちに、自分が大人になってから、
祖母の話を、きちんと聞いておかなかった事を
心底、悔やむ、わたしです。

いつか、天国で再会したら、ゆっくり話してもらおう。