London徒然草

「ばく」のロンドン日記

祖母と中国

2009-10-05 | 飼い主ネタ




「中途半端な梱包でありますが、文句ありますか?」

と言わんばかりの,ピップ君。

「文句など、ありません」



小学校低学年のある日、父が運転する車で家族そろって
遠いドライブに行った記憶があります。

珍しい事に、離れて静岡に住んでいた,祖母がいっしょでした。

行き先は,「ぐんまのあんなか」

と言われましたが,一体全体どこなのか,当時,皆目見当もつかず。

長いドライブのあと、着いたのは,一件の個人宅でした。

「よういらした、遠い所を」
と招き入れられた、お宅で、お茶とお菓子を出され、
長い長い大人達の会話が続いていました。

引き揚げ船、とか、満州とか,顔に炭をぬる、とか、
凍ったトイレを、ハンマーで崩すとか、銃撃とか,
知らない言葉がいっぱい飛び交っていました。

満州から,幼い子ども4人を連れて,命からがら引き上げて来た
祖母が,引き上げて来た時,一緒だった家族との引き上げ以来、
初めての、再会旅行だったと理解したのは,
それからずいぶん経ってからの事でした。

次の記憶は、日中の国交が回復して,残留孤児の調査が始まり、
孤児の皆さんが、テレビで家族に訴えをしている時。

母が,「私は見られないわ」といってテレビを消しました。
「私がこの人達だったかもしれなかったから」
と泣きそうな顔をしていました。

当時、5、6歳だった母は,幼い弟をおぶって,日本に帰って来たのよ
と話してくれました。たまに、ぽつりぽつりと、話してくれる、引き上げ、
戦後の困窮の話は、戦後の高度成長期に産まれた私には、まるで、現実感のない
話としてしか、認識できず。

私たちの世代、何しろバブルの絶頂期に、大学生でしたから。

幼い頃、「おばあちゃんのうち」に行くと、
朝ご飯の前に、必ず、小さい、子どものおままごとみたいな、
足の着いた金色のお皿に、ちょっとだけ、炊きたてのご飯を備え
お水を換えて、日付のついた、小さな冊子をその日の物に変えて、
おばあちゃんは長い間、手を合わせていました。

つきめいにち、という言葉もその時覚えました。

子どもを現地の人に何度も預けようと思ったけれど、できなかった、と
話していたおばあちゃん、日本に帰国してから、間もなく、母の兄である
長男を、病気でなくしました。

今夏、母と、自分の娘達と、中国に行った時、母は、孫達に
「昔私は中国語を話していたのよ」とちょっと得意げに話していました。
「うっそ~」と娘達。

母は、今でも世界中あちこち、飛び回っている人ですが、
よく考えると、今回まで中国にはただの一度も足を踏み入れていないことに
気づきました。

自分の年齢も考え、今回、何か、思う所があったのかな?

もともと、北海道に行こう!と話していたのに、
突然、「やっぱり中国に行こう、私の足腰が立つうちに」
と言い出したのは、母ですから。

本人には、聞いてみませんでしたけれど。

そして、帰って来て、私は,今さら、
祖母が亡くなってから、5年近くもたって、初めて、
自分の祖母は、
「子どもを亡くした母だったんだ」
と、あらためて認識し、彼女を祖母としてだけでなく、
一人の女性として、その苦労続きの人生をおもったのでした。

生きているうちに、自分が大人になってから、
祖母の話を、きちんと聞いておかなかった事を
心底、悔やむ、わたしです。

いつか、天国で再会したら、ゆっくり話してもらおう。










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12 Comments

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断念しました。 (いなひこ)
2009-10-05 10:27:15
お祖母様・お母様のお気持ちが、切ないです。
私は、中国が好きじゃない。しかし、残留孤児のことを思うと、侵略された国の子供をちゃんと育ててくれたんですね。そう思うと、お互いに何時までも昔に縛られないで、理解しあって行かねばならない国ですね。
私の母は、朝鮮からの引揚者でした。朝鮮で生まれて、朝鮮の小学校の先生をしてました。父は、満州鉄道で働いておりました。父も母もよく朝鮮の話をしてました。主人の初めての出張が、韓国で、お土産を持って行った時、二人が、韓国の様子を主人から聞いては、懐かしがっていました。そんな二人を主人は、韓国に連れて行ってあげようって言ってたんですが、何しろ、母達は、日本が韓国を支配してた頃に生まれ育っていたので、韓国を完全に下に見ている。この事は、どう説明してもダメでした。こんな二人を今の韓国に連れていけないと主人は、断念したんです。
長々とごめんなさい。 
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Unknown (ponchi37)
2009-10-05 14:09:08
うちの祖母は、自分の子供を亡くしこそしなかったけど、やはり戦時中は生活が大変で、病弱だった伯母だけ田舎に預けたそうです。
そこで伯母も辛い寂しい思いをしたそうなのですが、祖母もとても辛く切なかったそうで…。
いつも笑っていて涙なんてみせたことのなかった祖母が、その話をぽつりとした時に目に涙を溜めていて、驚いたことを思い出しました。

毎日仕事が大変だ~なんて言ってる私だけど、母や祖母の時代のヒトたちはもっともっと、私たちが想像できないくらい大変だったんだよねぇ。

おばあちゃま、天国から今回の「中国弾丸ツアー」を見守っていられたことでしょうね。


ピップ君、うちのジェイとほぼ同じ格好ですヨ。
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Unknown (tenchan)
2009-10-05 15:06:43
あの世代の人たちが頑張って生きて下さったから
今の私たちの生活があるんですよね。

子ども達にお腹いっぱいご飯を食べさせることが出来て、
毎晩安心して眠らせてあげられる
今の生活に感謝です。
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子どもを亡くした母 (そらもも)
2009-10-05 22:51:45
この言葉に、ハッとしました。
そういえば、私の祖母も、生後1週間も経たない娘を亡くした母です。その話をする祖母は淡々としていて、私には感情が見えなかったこともあり、目の前にいる祖母と感覚的に結びつかないまま昔話として聞いていましたが、そうですよね、まぎれもなく祖母が「子どもを亡くした母」なんですよね。
自分に置き換えてやっと、その苦しみが差し迫って胸が痛くなりました。

祖母の世代が生きてきた戦中から戦後、そして今…考えてみたら、これほど世の中が変わるなんて、すごい!
祖母に会うと、パターン化したストーリー展開の思い出話と「今の祖母の話」に終始してしまいがちなのですが、もっとちゃんと昔のこと、聞いておこうと思いました。
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Unknown (ちょろひこ)
2009-10-06 20:11:49
ほんと生きるか死ぬか、、という言葉は何の実感もない現代、戦時中を夢中で生き抜いた人々の貴重なお話は受け継がれるべきですよね。
うちの祖母(母の母)も長男(母の兄ですね)を7歳で原因不明の高熱で亡くしており、小さい頃思い出すと涙していたのを覚えています。親として子供がスクスク普通に成長して、また何かあっても医療の発達した現代に感謝しなければなりませんね。
お母さん、自分の悲しい思い出を封印していた中国へ行き、何を感じたでしょうか。その勇気は素晴らしいと尊敬します。
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あの時代 (ままま)
2009-10-06 23:51:15
いたるところにそれぞれの物語があるのですよね。
おばあちゃま、お母様の心の奥を思うと胸が痛みます。
人間って、悲しみ苦しみが深いほど口に出すことさえ出来なくなるものだと思います。
だからこそ戦争はなくならなければいけないと強く思いますよ。
戦争体験者もかなり高齢になってしまって、体験した人から直接話を聞いた年代も少なくなっていくのですね。
語り継がなければいけないことではあるけれど、将来の世界中の子供たちがずっとずっと戦争を知らない世代になってほしいものです。
ばくちゃん、やっぱり今年の中国旅行は正解でしたね。

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いなひこさま (ばく)
2009-10-07 04:49:42
わかります.....。実は同じ事が先日,両親がこちらに来たときに、起きまして。二人を連れて、中国料理店に行った時、父(彼は台湾からの引揚者で、母とは違い、向こうでとても良い生活をしていた)が、いきなり、お店のウエイターさんに、「日本語わかる?キミ、Japanese!」と、いきなり言い出し,私と娘は、「やめてよ!話せる訳ないじゃない!」と声を荒げたら、父に、逆切れされました。

根のとって~も深い問題ですよね。

連れて行きたいけど、断念した、いなさんと、いなオットさんの気持ち。痛いほどわかります。

娘はロンドンで、「東洋人」と、言われて暮らしているのも、何か皮肉ですよね。

長々となんて、とんでもない、長々大歓迎であります♪


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ponchiさま (ばく)
2009-10-07 05:02:15
皆、あの当時は,想像できない事が日常だったのでしょうね。疎開の話も、闇市の話も、聞けば聞くほど、現実なのかと思うことばかり。

祖母は、帰って来てからも、苦労し通しでねえ。
私たちも、毎日感謝して、無駄に日々を暮らしては行けないと思いつつ、どうも、情けないていたらくでして。

お仕事、大変だと思います。フレーフレー!
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tenchanさま (ばく)
2009-10-07 05:04:33
tenchanさんのおばあさまも苦労していらっしゃいますよねえ.....。

毎日、食べる物があって、平和に暮らせるこの、日常、沢山の人たちが、昔も、実は今も世界のなかでは、そうでない生活を余儀なくされている人々がたくさんいるのだよなあ。

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そらももさま (ばく)
2009-10-07 05:22:14
そうなんです。
私も、本当に、祖母は、わたしのおばあちゃんであって、一人の人間として、見ていなかったのです。命からがら、死守して,連れ帰った大切な息子を、栄養失調でなければ、助かったかもしれないのに、心臓の病気で失って。
その悲しみは、幾ばくだったかと、想像できたのは、本当につい最近です。
自分に置き換えてみて、改めて、頭をがーんと殴られたような衝撃でした。

そらももさんと、私、また、共通の部分がありました。

面と向かって、聞きにくい話題ですが、是非そらももさん、何気なくいろいろ話を聞いて、そらとんに伝えて下さいね。私はもう、かなわなくなってしまったので。

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