いろいろ面倒くさいので、家族間のなかで自分にふりかかる感情エネルギーを、すべて父親の治療にあてるように設定したら、体調が上向いてきた。
重いエネルギーのほうが治療には逆に向いているのかも。変換しやすいのかな?
いろいろ面倒くさいので、家族間のなかで自分にふりかかる感情エネルギーを、すべて父親の治療にあてるように設定したら、体調が上向いてきた。
重いエネルギーのほうが治療には逆に向いているのかも。変換しやすいのかな?
母親との過去生はみていなかったな、と気づいて、見てみたら思っていたよりもすごいものが見えた。
黒い太いしめ縄が、天地をつなげている。しめ縄の幅が人間10人分?20人分?というもの。
で、母親との過去生はこの黒いしめ縄が示す、人間のカルマとか愛憎とか、感情エネルギーのやりとりの連鎖のなかにあることを示していた。
私の過去生に、東欧の貴族の当主らしいものがあるのだが、それに関連しているらしい。この貴族の家門は有名なもので、私と母が関与していたのは一族の跡目相続に関するものらしく、調べれば今もそのことが出てくるらしい。
私は世界史が苦手なので調べないけど、この王侯貴族たちのカルマというか連鎖みたいなものはいまだに色々とあとをひいているらしい。で、いまの私がそれを認識し、もうそれには巻き込まれない距離で静観すると決めればOKなんだそうな。
人間には誰しも高次元、超高次元の存在との関わりがある。それを思い出せる、思い出せないの違いは人間としての役割の違いなど些末なことなのだろう。
そう考えると、我々は人間という肉体をもって隔絶した世界でどう生き、何をなすのか?と考えた場合、占星術のジオセントリックホロスコープはいいヒントなのだろう。
私の場合は、乙女座が強いわ、土属性大目だわ、なので「人間という職業を職人的に生きる」という目的もたぶんにある。
ヘリオセントリックも恒星パランも、恒星探索も必要だけど、太陽系のなかの羊が、狼を来たときに逆襲できるようにするには、まずはジオセントリックの研究をじっくりしないと難しいのではと思う。遊びにきた狼一匹対処できないのなら、牧場の外=太陽系外になんてとてもいけないだろう。
そもそも何をもって高次存在というのか、基準はなにか、という話もあるのだけれども。
自分の生活の軸足が物質(肉体)である人間がいて、エーテル体に軸足を置いている存在以上のものを「高次存在」としたとする。妖精や妖怪、生霊、悪霊も人間よりは「高次元」ね。
で、自分のメインガイドは割に「高次元」で、たとえばヘミシンクのフォーカスレベルで仮にいえば、1万とか10万くらいのところに位置するという。もちろん公式の数字ではないので、仮にとか、地球からの距離感で大雑把に例えるならという話。
先日もここにちょろっと書いたけど、人間が非物質的感覚を駆使して認識できる世界を「一つの生命の樹」としたら、私のメインガイドは、この生命の樹を複数にわたって自由気ままに横断したり、手を加えたり?中に入ったりできる?ような存在らしい?ので、もう肉体もった人間がきちんと認識できる以上の情報なんだよねーというかんじ。
で、そのメインガイドが私の魂だかの大元らしい?よ?
知らんけど。
もし私が「人間やめるぞーーー!○○ーーー!」っていったらやめれそうな気もする。
だけど、まあ人間として存在している理由もありそうなんで、いまのところ人間やっている。
あと、「人間としてとりあえず寿命(とか、あるのなら使命)をまっとうする」と意識しないと、とっとと人間やめかねない。だって、大元にかえったほうが喜びだもん。この面倒な世界に存在するのは、なかなかもってしんどいし疲れる。そしてなにより「寂しい」という感覚が強い。非物質的な知覚が向上するごとに、寂しさがずっと横たわる。
とりあえず人間として生きるなら、せっかくなので、らくで、楽しくて、おもしろくて、知的好奇心を刺激される日々がいい。
高次存在と付き合うということは、「自分は何しに地球へ?」という感覚を自問自答することも必要なのかも。特に私の場合、保留事項だけど、自分の意志で地球にきたのではなく「落とされてきた」という記憶?体験?の思い出があるからね。もう人間を積極的にやる意欲があまりないのかもしれない。できるだけ幸せにいきたいものです。
あの世にいくことを「転勤」というのは上手い表現だなあと思う。
https://blog.goo.ne.jp/kuru0214/e/a1c91476c7f298f80af00b7200cccc36
人間からみたら「高次元」にいくことを進化といったり、低いところにいくことを堕落といって必要以上に貶めるような言葉を使うのは、結局「上」「下」と比較や評価がしみついているからこその言葉だと思う。
ただ万物は変化するだけで、それが「下」にいってもそれは変化なだけ。アーリマンの手に委ねられたとしても、それは別に悪いことではない。物質の中に囚われとらわれきって、見える世界というものがあるのであろう。選択はあくまで自分自身で、死んでから選択してもいいわけだし。
恒星探索をするとでてくる、ネオンのように光る顔文字存在というものがいる。
その存在は私にとってちょっと特別な存在に感じる。そして、この存在に接すると「虚無」という感覚がでてくる。
この虚無の感覚は説明が難しいが、数年ぶりに思い出した「ゆめにっき」というとあるゲームにでてくる舞台に似ている。このゲームは知る人ぞ知るものらしい。
https://appget.com/appli/view/69008/
あとは、MOTHER2の「ムーンサイド」の雰囲気にも少し似ている。
で、虚無といっているが、もしかしたら「無」「無限」のことなのかもしれない。
私が人間として知覚できうる世界や境界をひとつの生命の樹で表すとしたら、無や無限に阻まれこえられない別の生命の樹にいる存在。その存在が、いったん私のいる生命の樹内で近くできるように、仮の姿をとったのが「光る顔文字存在」なのか?
そんなことを考えていたら、メインガイドの本体?大元?は、複数の生命の樹を渡り歩き、気に入ったらその生命の樹の中に埋没してその世界を経験できる存在である、というイメージがおりてくる。もう人間の常識の範疇外なので、ようわからんとなる。