とりあえず戯曲を書くときに、能や世阿弥の風姿花伝・三道を読んで見る。
すると非常に面白い。
もうここに、役者とか演劇論の答えがまるごとスポンと載っているじゃないか?
世阿弥はシェイクスピアの二百年ほど前に存在していて
シェクスピアも残さなかった演劇論を多数残している。
作能論も書いている。ようは作劇論。創り手側の視点も一緒に。
これを読んで世阿弥のこういうノウハウが欲しくなり非物質で会ってみる。
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「私は世阿弥や、それに関連する人、存在、創作物などから様々な力を得て自分に役立てる、自分の想像する以上に」と意図する。
世阿弥。姿は能の演者のシルエット。
「くれ」という。
「いいよ」という。
「制限とか条件とかつけないの?」というと
「もうこの状態では関係ない」と笑う。
生存中は、誰に何を渡すか迷っていたはずだけど。
「それは生きていたからだ。あの頃を」
まあ生存戦略だよね。
「そのとおり。いまはもう関係ないことだ」
この存在、この領域は世阿弥の形をしているが
もうそれ以上の存在、「能」そのものの側面でもある。
世阿弥はもちろん観阿弥。今春金剛観世宝生。
豊臣、徳川。公家に武士。そして戦後も生き残る。
ガッチリと能の力は日本の土地に根付いている。
それは人間の様々なエネルギーとともに。
様々に絡みつく「横」のエネルギー。
「私、別にいまの能好きでもなんだもないんだよね。
構造とかには興味あるけど。
演劇も舞台も、ドラマも映画も見ないし
自分が役者として演じないし作品を創るつもりもないけど
その力、借りても良いというか、むしろくれ」
我ながら思考が謎に上から目線。なんなんだろう?
「いいよ。最初にいったとおり」
「いやに素直だね」と意地悪な質問。
「あなたを断れませんよ」とエンゼルさん。
「なんでこんな強気というか、上から目線?」
「そこはノーコメントで。必要だから、としか言えないですね」
ふーん?まあいいや。
「じゃ、借り受けるというか、もらうよ」
「別にFREEだよ。好きに受け取ればいい。使えばいい。
使えるもの、受け取れるもの。
それだけの器、力があるものにしか受け取れない。
受け取れる、役立てられると思った時点でお前には資格があるのだよ」
まあ、中学生くらいにもチャレンジしていたけどね風姿花伝読むの。
でもあの頃はさっぱりで投げ出したな。
「時期がずれただけで、受け取れない」
まあそうだよね。
ふっと、エンゼルさんとアルゴルに再確認。
ほかに何かしたほうが良いことある?
するとアルゴルがお茶を飲みながら
「この力を、自分が人間社会、社会階層間で、有利に都合よく使う、と意図すればいい」
言われたので意図する。
「別に他人を蹴落とすとかそういうことにエネルギーを使わなくても
『ご都合主義』と意図すれば、そうなる。
蹴落とすエネルギーなど必要ない。もったいない。
蹴落とされるべき人物は、代わりに誰かに蹴落とされる。
『蹴落とすこと』に執念をもやす人間なぞいっぱいいる。
そいつらが都合よく、君の代わりに蹴落としてくれる。
蠱毒をわざわざ作らなくてもいい。
人間は、自ら人間同士で食い合い、そしてだれも最後に立っていない。
立っているのは、自分がそれを静観し、自分の生を全うし追求するもの。
食い合った人間の後には毒もバターも蜜もある。
好きなものを受け取りたまえ。
成果はだまっていても道端に落ちている。
が、それを見つけられる力量を持ったものしか見つけられない」
ひさびさ悪魔っぽい発言アルゴル。