人智を超えた大いなる存在と一体化することについて。
梵我一如、神我と真我、ブラフマンとアートマン、キリストや神、神人合一などの言葉や理念がある。
これは、融合して人間や個人というものがなくなるというよりは、人間として生きながらより大きな力、源泉、原理にあわさり、共振する、調律されるというイメージな気がする。
神と合わさることで、人間や人間生活を止めるのは怠惰。悟りという名を盾にした単なる逃げ。
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昨日、ふと思いだしたのが「他力本願」で、これも神との一体化のことだよなと気づいた。観音だけどね。
悪人正機の「善人」の項で
- 『親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。』
と書かれているのが痛快。
あと、親鸞のいう善悪は、通常の個人個人の考える善悪とはことなるので、そこから考えてみる必要性がある。
まあ、善悪をだすと「人格者になれ」的な勘違いしやすいけど、別に人格者になる必要はない。観音は人格者にみえるけど、世界の神話体系における神に、人間にとって都合の良い人格者なんていないよ。
「人格者」の意味は、それを口にした本人にとって都合の良い人格の人なだけ、ということが多い。