小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「質す」ということ:

2015年11月14日 | 社会戯評

「質す」ということ:

今年、二度目の弁論大会の観戦である。ただすということは、弁士の論理展開の矛盾を、問うだけでなく、その弁士による演題の現状分析手法・問題の剔抉手法・論理性・解決政策の提言に関して、別の切り口を問題提起したり、或いは、何故、弁士の選択した方向性になったのか、或いは、そうではない別の切り口が、何故、出来なかったのかという一種の眼に見えない「闘いの場」というよりも、コミュニケーションとでも云った方が、妥当かも知れないが、そういうもので有り、逆説的に謂えば、弁士もさることながら、「質す側」にも、その品格や質が問われかねないものである。聴衆という者も、実は、この辺に、敏感であり、弁士による聴衆へのアピール度合いも、さることながら、「聴く側」にも、しっかりとした、勉強能力や、予備学習と云った方が、宜しいかも知れないが、そういうものが、実は、しっかりと、問われているのかも知れない。その為には、事前の模擬演説による、演説草稿の厳しい評価と、それなりの想定問答集ではないが、様々な観点からの切り口と議論の深化が、為されて、謂わば、練りに練った、一字一句も疎かに出来ないような緻密な内容の原稿が、作り上げられていなければならないのかも知れない。又、質す側の気迫に決して、負けないような弁士の鬼気迫る力も、「言霊という力」を借りて、立ち向かわなければならないであろう。そうして、初めて、辯論というものは、初めて、成立するのかも知れない。そんな風にも、感じられた。テレビの国会論戦や街頭演説とは、やはり、異なる臭いが漂っているような気がする。

 


「不作為」と言う言葉の響き

2015年11月13日 | 社会戯評

「不作為」と言う言葉の響き:

日本語という言葉は、如何にも、便利な言葉である。そえは、あるときは、漢字で表現されることもあるし、又、あるときには、とりわけ、感情を表現するときには、大和言葉などで、意味深長な言い回しを行われて、一体、この意味は、漢字にしても、どんな意味で、英語に翻訳されるのであろうかと、考えてしまうし、恐らく、同時通訳のような職業では、即座に、どんな意味に、飜訳してしまうのであろうかとも、想像してしまう。年金の不正受給とか、更には、この事態が、把握されることなく、いつの間にやら、請求時効が成立してしまっている金額ですら、実態が、実に曖昧になっていて、情報公開でも、やっと、その累積金額が、把握されているのみで、その回収に向けての方策が、どのようになされ、何故、為されなかったのかという分析は、どうやら、お蔵入りの様相である。してみると、一体、この「不作為」なる無責任な行為は、どうように、判断したら良いのであろうか?このまま、何もやらなければ、どうなるかという結果が、認識・予測されるにも関わらず、放置するという行為は、何処が、無責任と異にするのであろうか?それに伴って、無駄な税金が失われてしまうのでは、たまったモノではない。どのように、組織として、対応できるシステムを構築すると共に、構成員に対する意識改革を行うのであろうか?

 


国家ぐるみのドーピング違反か?:

2015年11月12日 | スポーツ

国家ぐるみのドーピング違反か?:

いつのことであったか、記憶も定かではないが、確か、カナダの100m短距離走者であったカナダのベン・ジョンソン選手が、薬物ドーピング違反で、メダルを剥奪されたことを想い出されるが、考えてみれば、個人では、メダルの剥奪で、今度の場合には、国家・組織ぐるみの可能性が出てきたら、どうなるのであろうか?そんなに、カネとスポーツと、或いは、オリンピックでも、サッカー・ワールド・カップでも、名誉やら、名声とカネが、どこかで、結びつくとなると、国家ぐるみ、組織ぐるみ、団体ぐるみで、物事は、動くことになり、倫理の歯止めも、タガが緩んでしまうという事なのであろうか?それにしても、どちらが、先なのかは、分からぬが、どんな構図で、そんな巧妙な技術的なもみ消しの作業が、可能になったのであろうか?それにしても、スポーツによる国威の発揚などと云うものは、明らかに、一種の麻薬のようなもので、団体競技であれ、個人競技であれ、多かれ少なかれ、「国威発揚」には、よくよく、注意をしておかなければならないことが、事件からも理解出来よう。そこには、薬物を媒介にして、巧妙なまでの悪魔の誘いとしてのカネと名誉とが、微妙に、絡まっているとも思えないことはない。ナチスによるベルリン・オリンピックではないが、スポーツという競技の有する一種の何とも云いようのない「魔力」が、潜んでいることに気づかされる。出場停止処分となるのか、処分される側での問題だけでなく、処分する側にも、すねに傷を持つ者としての何らかの反省も、同時に、なくてはならないのではないだろうか?いずれにしても、徐々に、解明されてくるであろうから、その解明を、待たなければならないであろうが、

 


国家ぐるみのドーピング違反か?:

2015年11月12日 | スポーツ

国家ぐるみのドーピング違反か?:

いつのことであったか、記憶も定かではないが、確か、カナダの100m短距離走者であったカナダのベン・ジョンソン選手が、薬物ドーピング違反で、メダルを剥奪されたことを想い出されるが、考えてみれば、個人では、メダルの剥奪で、今度の場合には、国家・組織ぐるみの可能性が出てきたら、どうなるのであろうか?そんなに、カネとスポーツと、或いは、オリンピックでも、サッカー・ワールド・カップでも、名誉やら、名声とカネが、どこかで、結びつくとなると、国家ぐるみ、組織ぐるみ、団体ぐるみで、物事は、動くことになり、倫理の歯止めも、タガが緩んでしまうという事なのであろうか?それにしても、どちらが、先なのかは、分からぬが、どんな構図で、そんな巧妙な技術的なもみ消しの作業が、可能になったのであろうか?それにしても、スポーツによる国威の発揚などと云うものは、明らかに、一種の麻薬のようなもので、団体競技であれ、個人競技であれ、多かれ少なかれ、「国威発揚」には、よくよく、注意をしておかなければならないことが、事件からも理解出来よう。そこには、薬物を媒介にして、巧妙なまでの悪魔の誘いとしてのカネと名誉とが、微妙に、絡まっているとも思えないことはない。ナチスによるベルリン・オリンピックではないが、スポーツという競技の有する一種の何とも云いようのない「魔力」が、潜んでいることに気づかされる。出場停止処分となるのか、処分される側での問題だけでなく、処分する側にも、すねに傷を持つ者としての何らかの反省も、同時に、なくてはならないのではないだろうか?いずれにしても、徐々に、解明されてくるであろうから、その解明を、待たなければならないであろうが、

 


「反社会的勢力」なる言葉:

2015年11月11日 | 社会戯評

「反社会的勢力」なる言葉:

長年、民生委員を務めている友人が、あるときに、酒の席で、ぽつりと、「この世の中には、自分のモラル観念から、考えられないくらい逸脱している人間が、実際にいるものである」と、云っていたが、まさに、日大の名誉教授なるものは、しかも、法学部であれば、尚更のこと、一体、どんな人物なのであろうか?反社会的な勢力なる基組長のほうが、何か、ずっと、器が大きいような気がするのも、不思議な感じがしてならない。無論、多額な金額を無利子で、貸すわけはない以上、この反社会的なる勢力とは、実際、反社会ではなくて、何食わぬ顔をして、しっかりと、社会の中枢に、根ざしている一種のマフィアなのであろう。さすれば、この「反社会的勢力」なる言葉とは、実際、如何ほどの意味があるのであろうか?何処までが、正義で、どこからが、反社会的なのか?この如何にも、善人ぶったような言葉の奧には、どんな意味合いが込められているのであろうか?ドーピング違反も、薬物中毒も、一度、国家ぐるみで、行われれば、それは、決して、反モラルでもなく、ましてや、その結果、金メダルでも獲得する暁には、もはや、それは、称賛にすら値する行為なのかも知れない。一体、「反社会的勢力」とか、「反モラル」とかという、日常、ありふれて、ごく自然に、当たり前に、使用されている言葉の裏には、実際、どんな「罠」が、潜んでいるのであろうか?仮に、反社会的な勢力が、実は、奨学金やあしながおじさんや、盲導犬支援団体へ寄附していたら、どのように、その行為は、問われるのであろうか?それとも、反社会的な勢力は、どんな便宜供与を期待しているのであろうか?

 

 


縄文文化に想いを馳せると:

2015年11月10日 | 社会戯評

縄文文化に想いを馳せると:

古代文明というものは、余りに、時間が悠久としすぎていて、ほとんど、浪漫に近い感慨であろうか?教科書では、如何にも、縄文土器の紋様が、人間性の自由さと想像力の豊かさの象徴であるとか、狩猟採取集団として、農工を始める以前の定住生活には、至らないとか、様々な世界文明と比較して、その違いと共通性を、これまで、語られてきたようであるが、どうやら、三内丸山遺跡での20年以上に亘る発掘調査の結果、これまでの定説や常識を全く覆すような発見が、され始めているようである。そもそも、何故、そんなに、1万年にも及ぶような長い期間、しかも、雪国の北の果てで、今日の常識をもってしても、驚くべき大規模な定住社会が、発生し、存続し得たのかという疑問は、所詮、100年も生きることが出来ない現代人には、一万年といわれても、全く、気の遠くなるような時間である。そもそも、栗の樹が、まるで、果樹園のように、種から、苗を作り、それを計画的に、植林して、採取したり、或いは、縄文土器を使用して、煮炊きに使用したりすることで、食用となる食物が、飛躍的に、充実・拡大したとか、人口的な工作物や建築物も、あんなに、巨大なものを一体、何人の人を使用して、建てたのであろうか?そうした技術的なノウ・ハウは、如何にして、修得され、どのようにして、伝承・継承されたのであろうか?言葉や文字は、コミュニケーション方法は、マニュアルは?どんぐりの渋抜きや栗の実をどのようにして、調理して、食べたのであろうか?明らかに、魚の脂や獣の脂質が、土器にこびり付いているところから解析すると、想像以上に、豊かな食事を愉しみ、栄養バランスが良かったのかも知れない。ひょっとすると、現代のカロリー・コントロールや拒食症による栄養失調などとは比べものにならない、豊かな安心・安全な食生活だったのかも知れない。それにしても、アミニズムの影響なのかどうかは、定かではないが、土器野土偶への紋様や服装飾への表現というものも、当時の人達の方が、芸術的なセンスが、一枚も、二枚も、上だったのではないかとも、類推さえしてしまう。何事も、現代へと進化するという「進化論的文明論」では、推し量ることの出来ない何ものかが、この長い縄文文化というものには、存在しているのかも知れない。そんな共生・共存、或いは、計画的な天然資源の再生可能な、永続的な仕組みをそもそも、その生活の中に、根底的に、そうした哲学を、自然の中から、学んで、有していたからこそ、1万年もの長い間、維持・継続出来たのかも知れない。そう考えると、現代の我々は、何とも、傲慢な哲学と自然破壊の哲学しか、有していないのかも知れない。まだ、土偶の評価というものは、実は、定説が固まっていないということも、大変、興味深いことである。歴史の闇から消し去られてしまったマヤ文明の文字が、解明されるようになるまで、時間が掛かったように、縄文文化の価値というものも、まだ、これから、何十年もの間に、新たな発見と研究がなされなければ、定説として、定着はしないのかも知れない。ひょっとして、栗菓子を食べるときには、或いは、どんぐりの実を拾い上げるときに、更には、ワラビやゼンマイやコゴミを食するときには、古代人のことを想い出さなければいけないのかも知れないし、古代にも、昆布や魚で、出汁を取って食事をしていたのかもしれないと想像するだけでも、面白くなるし、現代人は、何事も、古代は、未発展・進化過程であったと考えるこうした傲慢な歴史史観は、捨て去らなければならないのかも知れない。それでも、当時の人は、ストレスがあったのであろうか?縄文文化に、想いを馳せると、一体、我々、現代人には、何が見えてきて、或いは、何が見えてこないのであろうか?

 

 


縄文文化に想いを馳せると:

2015年11月10日 | 社会戯評

縄文文化に想いを馳せると:

古代文明というものは、余りに、時間が悠久としすぎていて、ほとんど、浪漫に近い感慨であろうか?教科書では、如何にも、縄文土器の紋様が、人間性の自由さと想像力の豊かさの象徴であるとか、狩猟採取集団として、農工を始める以前の定住生活には、至らないとか、様々な世界文明と比較して、その違いと共通性を、これまで、語られてきたようであるが、どうやら、三内丸山遺跡での20年以上に亘る発掘調査の結果、これまでの定説や常識を全く覆すような発見が、され始めているようである。そもそも、何故、そんなに、1万年にも及ぶような長い期間、しかも、雪国の北の果てで、今日の常識をもってしても、驚くべき大規模な定住社会が、発生し、存続し得たのかという疑問は、所詮、100年も生きることが出来ない現代人には、一万年といわれても、全く、気の遠くなるような時間である。そもそも、栗の樹が、まるで、果樹園のように、種から、苗を作り、それを計画的に、植林して、採取したり、或いは、縄文土器を使用して、煮炊きに使用したりすることで、食用となる食物が、飛躍的に、充実・拡大したとか、人口的な工作物や建築物も、あんなに、巨大なものを一体、何人の人を使用して、建てたのであろうか?そうした技術的なノウ・ハウは、如何にして、修得され、どのようにして、伝承・継承されたのであろうか?言葉や文字は、コミュニケーション方法は、マニュアルは?どんぐりの渋抜きや栗の実をどのようにして、調理して、食べたのであろうか?明らかに、魚の脂や獣の脂質が、土器にこびり付いているところから解析すると、想像以上に、豊かな食事を愉しみ、栄養バランスが良かったのかも知れない。ひょっとすると、現代のカロリー・コントロールや拒食症による栄養失調などとは比べものにならない、豊かな安心・安全な食生活だったのかも知れない。それにしても、アミニズムの影響なのかどうかは、定かではないが、土器野土偶への紋様や服装飾への表現というものも、当時の人達の方が、芸術的なセンスが、一枚も、二枚も、上だったのではないかとも、類推さえしてしまう。何事も、現代へと進化するという「進化論的文明論」では、推し量ることの出来ない何ものかが、この長い縄文文化というものには、存在しているのかも知れない。そんな共生・共存、或いは、計画的な天然資源の再生可能な、永続的な仕組みをそもそも、その生活の中に、根底的に、そうした哲学を、自然の中から、学んで、有していたからこそ、1万年もの長い間、維持・継続出来たのかも知れない。そう考えると、現代の我々は、何とも、傲慢な哲学と自然破壊の哲学しか、有していないのかも知れない。まだ、土偶の評価というものは、実は、定説が固まっていないということも、大変、興味深いことである。歴史の闇から消し去られてしまったマヤ文明の文字が、解明されるようになるまで、時間が掛かったように、縄文文化の価値というものも、まだ、これから、何十年もの間に、新たな発見と研究がなされなければ、定説として、定着はしないのかも知れない。ひょっとして、栗菓子を食べるときには、或いは、どんぐりの実を拾い上げるときに、更には、ワラビやゼンマイやコゴミを食するときには、古代人のことを想い出さなければいけないのかも知れないし、古代にも、昆布や魚で、出汁を取って食事をしていたのかもしれないと想像するだけでも、面白くなるし、現代人は、何事も、古代は、未発展・進化過程であったと考えるこうした傲慢な歴史史観は、捨て去らなければならないのかも知れない。それでも、当時の人は、ストレスがあったのであろうか?縄文文化に、想いを馳せると、一体、我々、現代人には、何が見えてきて、或いは、何が見えてこないのであろうか?

 

 


七人制ラグビーをTV観戦してしまった:

2015年11月09日 | スポーツ

七人制ラグビーをTV観戦してしまった:

にわかラグビー・ブームなのであろうか?それとも、日本人特有の気まぐれな血が騒ぐ、一時の徒花なのであろうか?五郎丸に続けとばかりに、イケメン・ラガーマンや、恐らく、今後マスメディアが、続々と手ぐすね引いて待っているであろうとおぼしきアイドル・ラガー・ウィメンへと、継承されるのであろうか?こうなると、もはや、新しいマイナリティーのスポーツ競技というよりは、一種の客寄せパンダの様相を呈し始めるかの如きものがあろうか?それは、結局、メジャーになるまでは、ある種の宿命のようなものなのかも知れないし、マイナリティーな競技から、脱皮するときには、考えようによっては、宣伝効果のような必要経費であると思わなければならないのかも知れない。それにしても、同じ競技場で有りながら、全く、違ったようなラグビーであることに、驚いてしまう。如何にも、機敏さや敏捷性やスピード感を尊重する日本人好みの要素が、そこには、垣間見られるのは、実に面白い。サッカーには、フットサルというまるで、ミニチュア版のような競技があることは、知られているが、そもそも、人数が少ないだけではなくて、広さが、縮小されているので、動きが、確かに、素早い。七人制のラグビーは、その点、男女共に、明らかに、異なり、重厚なまるで戦車のように、押しまくるスクラムとは、様相を異にしている。実に、スピード感があって、如何にも、せこせこ、動き回る体格に劣る日本人には、向いているのかも知れない。ひょっとして、今後、なでしこリーグではないが、ラグビー場に、多数のオタク紛いのおじさんやカメラマン達が、アイドル女子選手を追っかけで、殺到するかも知れないし、又、ラガー女子が、イクメン・ラガーマンを、お目当てに来ることになるやも知れない。ヒョッとして、スポンサーや企画会社次第、或いは、宣伝の仕方で、オリンピック人気が高まるのかも知れない。子供の頃は、三角ベースとか、狭い空き地を利用して、子供達は、工夫しながら、ゴロ・ベースを独自に、愉しんだものであるが、ヒョッとして、これからは、様々なスポーツ競技で、人数を変えたり、ルールを変えたりして、新たなスポーツ競技が出てくるのかも知れない。そう言えば、昔は、バレーボールも9人制から、6人制に、なっていることを想い起こす。その意味で、発想の転換と、新たな観点からの切り口が、スポーツ界にも、必要とされているのかも知れない。男女七人制のラグビー選手達には、リオ・オリンピック出場という切符は、まだまだ、これから長い道のりの中で、マイナリティー競技から脱皮する記念すべき歴史的な切符に過ぎないのかも知れないし、将又、或いは、一時の全く気まぐれのブームの渦中に咲いた徒花に過ぎないのであろうか?いずれにしても、一生懸命やってきた選手・スタッフには、お目出度うと称賛してあげても、決して、悪いことではないのでないであろう。今後、どのように、発展して行くのであろうか?面白そうである。

 


対等なパートナーシップ:

2015年11月08日 | 社会戯評

対等なパートナーシップ:

別に、日米間での対等な政治的なパートナーシップの関係ではない。男女間というよりも、性を超越した人権問題や家族関係にも関わる問題である。渋谷区では、先進的に、同性婚でも、民法の規定を越えて、むしろ、生活人権問題の観点から、対等のパートナーシップを認める証明書の発行を開始したと、報じられている。考えてみれば、女性の再婚の6ヶ月間に亘る禁止規定も、明治期の民法規定が、そのまま、反映されていて、今日では、DNA鑑定による技術的な発展がなされているにも関わらずである。戦前からの家族制度が、戦後、崩壊したのに、依然として、戦後70年も経過したにも関わらず、こうした規定が放置されているとは、驚くべきことであろう。夫婦別姓の問題にしても、女性の社会的な進出の促進を考えれば、ある種の許容が必要であろうかとも、考えられるも、男子による万世一系の天皇制の存続問題ではないが、戸籍上の問題と、生活上での活用の区別を、もっと、緩やかに、認めるべきではないかと考えられよう。性同一症候群ではないが、こういう問題も、これまでは、あまり、おおっぴらに、論じられることはなかったが、今や、そのことで、悩む一種の人権問題であると、考えれば、幸福に、暮らせるだけの社会的な一定の配慮も、必要であろう。又、居住や賃貸借契約の問題から、同性パートナーの問題にしても、ある種の証明書の発行で、根本的な戸籍上の問題解決ではないにしても、やはり、不都合が解消されるのであれば、それはそれで、一歩前進ではないだろうか?対等なパートナーシップという、これらの問題に共通するキーワードには、様々な、問題が、垣間見られることになろうとは、戸籍・家族・夫婦・少子化など、色々と考えさせられる。直接的に、関係しなくても、やはり、同じ、人としての人権を考える局面として、考えさせられる。

 


有機肥料の偽装の影響:

2015年11月07日 | 社会戯評

有機肥料の偽装の影響:

全く困ったことである。今度は、有機肥料だそうである。水増しのために、化成肥料を混ぜていたとか、未だ、詳細は、詳らかではないが、、、、、おおいに、その生産物への影響は大きなものがあろうか?それにしても、昔、散々、雪印の食品表示の偽装工作問題に揺れた経験があるが、それ以来、食品偽装が、連続して、更には、中国での偽装が問題視された苦い経験があるというのに、全く、懲りない様相である。肥料などは、原発事故の時に、有機肥料として、散々、放射能汚染問題で、取引先が、大量の落葉樹の肥料を廃棄処理せざるを得なかったことを想い起こす。これに較べて、今回の会社は、全く、長年に亘って、規格を確信犯的に、偽った上に、消費者である農家・生産者に、大量な肥料を販売・流通させた上に、堂々と、その生産物までもが、JAS法の下での有機栽培農産品として、認証されていたとは、全く、驚くべき仕組みである。もうこうなると、何を信用したら良いのであろうか?全く、責任分担の分業も、ままならない、まるで、自動車のパーツのリコールの連鎖のような状態である。考えてみれば、我々、戦後に、幼少期を過ごした世代は、散々、チクロで、人工甘味料で、或いは、米軍払い下げの飼料用粉ミルクとコッペパンで、育てられたから、今更、有機だとか、添加物・保存料なしとか、遺伝子組み換えフリーとか喧伝されても、ちっとも、可笑しくない。むしろ、そんなものは、初めから、混入しているくらいにしか、或いは、織り込み済みだと思わざるを得ない。ひょっとすると、遺伝子組み換えフリーの小麦類製品などは、とうの昔に、製品化されていて、毎日、知らないうちに、おいしく、食べているのかも知れない。そんなニュースが、突然、世界を駆け巡ることになるやも知れない。今や、そんな時代かも知れない。もっとも、それと、偽装を許すという事とは、別問題なのではあるが、私には、何とも、裏切られたと云うよりも、所詮、そんなものなのかも知れないとも、思わざるを得ない。むろん、真面目に、風の向きで、化成肥料が飛んでこないように、農作物を真面目に、管理している生産者には、誠に、お気の毒という他ない。何でもかんでも、モラルにだけ、頼っていても、或いは、検査体制に、囚われていても、問題の本質には、迫ることがないのかも知れない。それが嫌ならば、自家菜園でも、やる方がマシなのかも知れない。一体、農産物製品の損害賠償とか、得べかりし利益までも法的に訴訟されたら、この会社は、どうするのであろうか?

 


記念日という代物:

2015年11月06日 | 社会戯評

記念日という代物:

もう、今年で、結婚後39年、来年には、40年に当たる節目を迎えることになる。これまでも、記念日という代物は、何やら、厄介なもので、忙しさに紛れて、忘れると、一体全体、何をどのように、考えているのかと、強く、誰かに、問い糾されそうでいて、実に、微妙な気持ちになる。さりとて、手帳やスケジュール表に、初めから、年初にでも、あらゆる記念日をインプットしておくことにより、放念しないようにするのも、如何なものかとも、思う次第である。子供が小さかったことには、誕生日とか、何やかやとかで、愉しく、家族皆で、祝ったものであるが、一人欠け、二人掛けとする内に、結局、最期に、残るのは、夫婦二人の間にある共通の記念日となってしまうのであろうか?若い時には、5年とか、10年とか、或いは、毎年だったであろうか、こまめに、記念日に、食事や、小さなプレセントを用意したものである。しかしながら、年月が経過するにつれて、むしろ、精神的なもので、形ではなくて、謂わば、空気や水のような形へと変化して言ってしまうのかも知れない。もっとも、外人のように、毎日、軽いハグをしたり、キスや、将又、「綺麗だね!」とか、お世辞にも、そんな甘ったるいことを毎日、云っているわけにもゆかないものの、心の底では、そういうことも、ある種の形として、表現することも、ひょっとして、大変重要なのではないかとも、何処か心の隅で、感じ入ってしまうこともあるのが、現実であろう。子供達や親の誕生日も、ある頃からは、命日に変わっていったり、何回忌へと変容していく中で、これから、どれ程の結婚記念日なるものが、一緒に、共有出来ることになるかは、定かではないが、それまでは、せいぜい、できる限り、この貴重な記念日成る代物を共有してゆくこととしたいものである。もっとも、どちらが先に欠けるかは、定かではないが、順番からすれば、こちらが先に、ゆくことになるではあろうが、その時に、この記念日なるものは、一体、どのように、記憶されるのであろうか?そう言えば、両親達は、結婚記念日を、どのように、祝っていたのであろうか?聴いておくべきだったかな!?簡単な食事と、ブラッとショッピングを愉しんで、今年も、無事、終了致しました。来年は、いよいよ、ルビー婚らしい。

 

 


景観の変化に思う:

2015年11月05日 | 自然・植物・昆虫

景観の変化に思う:

何やかやと日常の些細な雑事に追われているうちに、モミジの紅葉も盛りを過ぎてしまい、気が付けば、遠く望む山並みも、その頂上付近から、麓へと続くなだらかなタベストリーの色合いも、随分と茶褐色が増してきたように思われる。標高の高いところでは、急激な寒さのせいだろうか、一挙に、落葉が始まり、流石の唐松の尖った葉先も、耐えきれずに、パラパラとばかりに、晩秋間近の冷ややかな空気の陽光の中で、空から、舞い落ちてくる。既に、道端には、茶色い堆積物のような形で、何層にも成って、良い肥料になることを待っているようでもある。モミジの真っ赤な、或いは、オレンジや黄色の紅葉した葉っぱ達は、それでも、何とか、枝にしがみついているように、残っていて、まだ、そのグラデーションが、辛うじて愉しめそうである。それにしても、今年の春先には、4本もの赤松が、松食い虫にやられ果てた末に、やむなく、切り倒したが、色が変わった紅葉の中で、改めて、玄関近くの樹齢40年を優に越える赤松の大木の枝先が、どうも、枯れ始めていることに、始めて気が付く。どうやら、一連の松食い虫の被害に、この大木も、逃れる術をもっていなかったのであろうか?それにしても、庭の景観とか、風景の景観を長い間、維持することは、全く、大変な事であることに、思いが至る。明らかに、一本の樹が失われることで、恐らく、陽の当たり方とか、風の向きとか、雨の降り方とかも、大きく変わり、生態系が変化することは、疑いのないことであろう。庭の景観などと云うものは、その点、何年にも亘って、同じ景観を維持することは、相当な人工的な努力がなければ覚束ないのであろう。それに比べたら、自然の景観というものは、人工の手が加えられにくく、維持が、困難である。ましてや、最近の外来植物とか、危険危惧種とかを考えると、ますます、考え込んでしまう。来春にでも、この赤松の大木が切り倒されたら、どのように、景観は、変化してしまうのであろうか?現在、下草と共に、生えているちいさなヒマラヤ杉が、一挙に、成長することになるのであろうか?それとも、隣りで、これまで、抑制されていた桜の樹が、枝先を大きく、拡げることになるのであろうか?これまでの景観の維持と、新たな景観の展開という微妙な狭間に、置かれることになろう。何やら、失われるものと、新たな展開への期待と、心の中で、複雑に交錯するようである。まるで、人生の一コマを見せつけられているような感じさえしてならない。

 

 


データ改竄の怪:

2015年11月04日 | 社会戯評

データ改竄の怪:

最近、極めて、目につくのが、データや統計の改竄の事実であるが、これは、本当に、最近に始まったことなのであろうか?何でもかんでも、大本営発表を散々疑うことなく、信じていたあの頃に較べて、本当に、正しい数字が、事実に即して、公表されているのであろうか?東芝も、千葉県警の交通違反問題も、杭打ちのデータ流用も、一体全体、何が、そうさせているのであろうか?どうも、学者というものは、今日、組織行動の分析も或いは、担当者個人の心理の心底に潜む何ものかをも、解析不能になっているように思えて成らない。それは、今でも、VWの問題でも、中国の経済成長率の問題も、全く、同様で、或いは、日銀の物価上昇率の目標数値も、実際には、本当の数字なのだろうかと、日常性から来る実感からとは、多少違った違和感があることから、考えさせられてしまう。倫理観とか、第三者委員会とか、検証委員会とか、言葉は、どうでも宜しいが、個々人が、個々人のレベルで、自らを律するという基準が、今日、コンプライアンスを、お題目のように、百万遍も唱えたところで、何故、有効に、機能しなくなってしまったのであろうか?これでは、「失敗の本質」当時と、全く、変わっていないではないだろうか?クレーム処理の時には、必ず、その原因の究明と構造を詳しく、追跡調査、解析して、所謂、二度と同じ過ちを課さないための「対策」の提示とカイゼン実行が、課せられるのが常であるが、どうしたものであろうか?とりわけ、権力を握る警察などに至っては、裏金問題のそうであるが、錦の御旗の為には、多少の改竄も内部的には、その大目的のためには、小事の過ちとして、看過されるのであろうか?こうなると、統計数字自体が、現実を表さないことになり、そもそも、「事実」・「実態」とは、一体、何なのであろうかと、思わざるを得ない。勝てば官軍ではないが、事実という側面には、実は、そんな何ものかに都合の良いものが、常に、改竄を許すようなものがあるのであろうか?それとも、純水のように、飽くまでも、他者に利用されることのない孤高の独立性と犯しがたい状態で存在しているのであろうか?統計とか、事実ということを考えるときに、改めて、考えさせられてしまう一種の幻想の中で、我々は、実は、生きているのかも知れない。それに気づかされたときに、始めて、我々は、現実とか、事実とかに、改めて、直面するのかも知れない。そんな風に、感じてしまう昨今の連続する出来事である。

 


本田の新たな挑戦:

2015年11月02日 | スポーツ

本田の新たな挑戦:

といっても、車のホンダの自動運転への挑戦ではない。サッカーのACミランの本田選手が、なにやら、チーム批判だけではなくて、今後の身の振り方も考えてなのかはどうかは分からないが、少年チームや海外の地方リーグのオーナーになって、「自分のサッカー哲学」を実践してみようとしているらしい。それも、国境や国籍を超越して、自分の理想とするサッカー哲学を、選手育成も含めて、ハードとソフトの両面から、実現しようと試行錯誤の末に、辿り着いた結論らしい。おおいに、この若者の目指すところに、関心を払わなければならないかも知れない。ひょっとしたら、新たなサッカー界に於ける地域サポーターシステムとは、異なる視点での新たなサッカー・ビジネス・モデルの創出になるのかも知れない。企業や団体や地方による一種のサッカーのパトロン・システムとは、根本的に、異なる本田選手らしい夢の実現なのかも知れない。選手であればこそ、或いは、競技を実際に体験したものだからこそ、与えられた監督業やコーチ業では無くて、オーナーとして、新たなサッカー・チームの経営モデルを、国際的に、創ってみようと思ったのかも知れない。しかも、それは、ラグビーではないが、国籍条項をも、ある種、超越するかのような一種のスポーツの有する普遍的な人種差別や貧富の差がない、誰でもが、等しく、その強い意思さえがあれば、成功への平等な機会を当たられうるようなプラット・フォーム作りなのかも知れない。一体、どれ程の私的な財産の提供やスポンサーの協力があるのかは、定かではないが、日本の若者が、こうしたこれまでのキャリアーと人生を懸けての挑戦は、羨ましいものである。プロ・テニスの英才教育や、人材育成システムとは、異なる、しかしながら、しっかりと、彼のことであるから、将来的な経営採算計画は、初めから、想定されているように、思われるが、こうした挑戦が、成功することを願ってやまないものである。子供の貧困の格差とか、教育の格差とか、スポーツの世界ですらも、同様な厄介な問題が、今や、顕在化しつつあるのが現実である。その意味からしても、本田により新たな挑戦は、なかなか、興味深いし、只単なる反骨のヤンチャな選手だけではなさそうであることは、実に、面白いではないだろうか?

 


本田の新たな挑戦:

2015年11月02日 | スポーツ

本田の新たな挑戦:

といっても、車のホンダの自動運転への挑戦ではない。サッカーのACミランの本田選手が、なにやら、チーム批判だけではなくて、今後の身の振り方も考えてなのかはどうかは分からないが、少年チームや海外の地方リーグのオーナーになって、「自分のサッカー哲学」を実践してみようとしているらしい。それも、国境や国籍を超越して、自分の理想とするサッカー哲学を、選手育成も含めて、ハードとソフトの両面から、実現しようと試行錯誤の末に、辿り着いた結論らしい。おおいに、この若者の目指すところに、関心を払わなければならないかも知れない。ひょっとしたら、新たなサッカー界に於ける地域サポーターシステムとは、異なる視点での新たなサッカー・ビジネス・モデルの創出になるのかも知れない。企業や団体や地方による一種のサッカーのパトロン・システムとは、根本的に、異なる本田選手らしい夢の実現なのかも知れない。選手であればこそ、或いは、競技を実際に体験したものだからこそ、与えられた監督業やコーチ業では無くて、オーナーとして、新たなサッカー・チームの経営モデルを、国際的に、創ってみようと思ったのかも知れない。しかも、それは、ラグビーではないが、国籍条項をも、ある種、超越するかのような一種のスポーツの有する普遍的な人種差別や貧富の差がない、誰でもが、等しく、その強い意思さえがあれば、成功への平等な機会を当たられうるようなプラット・フォーム作りなのかも知れない。一体、どれ程の私的な財産の提供やスポンサーの協力があるのかは、定かではないが、日本の若者が、こうしたこれまでのキャリアーと人生を懸けての挑戦は、羨ましいものである。プロ・テニスの英才教育や、人材育成システムとは、異なる、しかしながら、しっかりと、彼のことであるから、将来的な経営採算計画は、初めから、想定されているように、思われるが、こうした挑戦が、成功することを願ってやまないものである。子供の貧困の格差とか、教育の格差とか、スポーツの世界ですらも、同様な厄介な問題が、今や、顕在化しつつあるのが現実である。その意味からしても、本田により新たな挑戦は、なかなか、興味深いし、只単なる反骨のヤンチャな選手だけではなさそうであることは、実に、面白いではないだろうか?