散らぬ間の 芥子を訪ひては 白珠の 秘むる思ひを ささめかむとす
*失礼。今少し気分が悪いのです。ネットで現代短歌を調べていて、色んな現代歌人の歌を読んでいるうちに、吐き気がしてきた。あられもないとがった人間の心が、汚いものに濡れたまま洗われもせずにそのまま詠まれていて、それを洗練された感覚だと主張している。
とても痛い。
この時代は、馬鹿な人間の心をそのまま歌うのが流行りだとでもいうような歌がぼろぼろ出てきているようですね。すべてを見ることはできなかったが、すこし見るだけで目眩がした。あれをいいともてはやしているのは誰なのか。わかっていても会いたくはない人種だろう。
短歌で何とか読める作品を詠ってくれているのは、戦後すぐくらいまででしょうか。20世紀末からの歌は歌だとは考えたくないものがたくさんあります。
わたしは表題のような清々しい歌がいい。この歌は読んでくれればわかるかと思いますが、スピカの「ひなげしが咲いている間に」という言葉を歌にしてみたものです。作者は「なみだ」や「かろむ瀬」の歌の作者と同じです。
散らぬ間のひなげしを訪ねて、貝の中の真珠のように胸に秘めている思いを、ささやこう。そのようにして、愛する人がこの世界にいてくれている間に、愛の気持ちを打ち明けよう。後に悔いがないように。
「ささめく」はもちろん、「ささやく」の意です。こういうかわいらしい古語は押さえておきましょう。語感というのは大事だ。ああ、すこし気分が治って来ました。
感情というものは、低きにあるのが自然ではありません。獣にひた近い感情を赤裸々にとがった表現で出すのははしたない。馬鹿なことを考える自分を肯定するのと同じことだ。人間として成長していくことを目指す人間を愚弄している。
そういう歌はどんなに流行っていても、わたしは歌だとは認めません。単なるしれごとだ。歌は人間の心を高みに導くものでなくてはならない。それでなければ、自分というものの価値がない。
高いことを勉強し、洗練された態度を学び、人の心を愛に導くような美しい言葉を組んで歌を詠えるようになることを、否定しているようでは、歌詠みとは言えない。
単なる馬鹿です。